S7

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青春を奪われた人は、青春だけでも返してくれと願う。
江戸時代、あるいはもっと以前に、南方に島流しにされた囚われ人や、何らかの理由で南国に渡り、そのまま帰れなくなった人々が、日本に帰りたくて嗚咽の涙を流したことは史実からも明らかなようだ。

南(みなみ)によると、たかが食べ物だけでも、日本の味が楽しめない外国生活では、日本に居た時にはなんとも思わなかったあの店、あの料理が食べたくて、それだけの夢で目が覚めてしまう時があったという。日本の味が知られていなかった三十年も前では、現地で味噌、しょうゆを獲得することさえ難しく、自宅でさえも日本から送られない限り、日本の味は味わえなかったからだという。ところが、ぎりぎりになればなるほど、恋しいのは日本食でなくなって中華になるんだよ、やはり日本の味は淡いからだろうね、と笑っていたが。
つい、この間でも、戦中、戦後の飢餓を生き延びた人たちが集まると、まず何も言わずに食い物にかぶりつき、一息入れたところでやっと安心し、「あのころ、これくらい食えていたらなぁ」と嘆息するのが常だった、という話を聞いたことがある。本当に、二十年前にはこういう話もまかり通っていた。


何に不足があったのでもいのだが、こういう気持ちは、当人以外感じることは絶対不可能なだけに、常人には計り知れないものがある。人は、その人生で、こうしたいということが出来ない場合、後までその思いを引きずったり、時にはその無念のために復讐したりもする。


そんな凄いことにはならないと思いたかったが、宮間にも、返して貰いたい十年がある、と感じずにはいられなかった。
もともと宮間は建築は素人で、見よう見まねでやってきた男である。
美佐江と結婚することになった時、美佐江の父が、最初結婚に反対し、娘が戻らないとわかったら、今度は宮間の買収にかかったのだ。
美佐江の父、村上龍二は医者で、四十床ほどの内科病院を経営しており、その運営に身内の協力が必要だった。自分の職業に迷いのあった宮間は、しばらくこちらも手伝うかという気持ちにもなっていたことが悪く働いた。
「住宅の一軒や二軒建てたところで何になる?仕事が回転しないじゃないか」
それはいつもながらの、龍二の口癖だった。


もっともな話で、工務店でもやるなら別だが、住宅に設計と言ったって、生涯続けて客が出てくるなんてことはまずありえない。
しかし、当然ながら宮間には病院を手伝うなどというのはあまりに違う分野だった。
とは言え、身内経営となるとそんなことも言っていられない。ちょっと手伝うと雑務はいくらでもあった。
とはいえ、持ち前のルーズな性格が病院事務に合うわけも無く、ほとんどだらだらと中途半端な関与を続けてしまったのだ。軌道修正時期も入れると、約十年はどっちつかずの生活を続けてしまったことになる。本気で建築だけに邁進すれば、もっと何とかなっただろうにとくやんでいるのだ。