BDEKMN@イタリアと日本 文化で食べよう 国家戦略室への提言

【情報・論】



面白いとおもって始めた、「イタリアと日本、何が見える」が終わりました。
参加された方々に感謝いたします。終わりには皆さんとイタリアン・レストランに繰り出し、楽しく過ごしました。
終わりに、内閣官房国家戦略室宛の提案書のコピーを配布しましたので、それを添付しておきます。




「イタリアと日本」何が見える? 第9講(最終回)  文化で食える           20091208




まとめ:イタリアは恐るべき個人主義の国でありながら、貧困率は日本の2/3(*下記註)、世界最高の自殺者を抱える日本に対して、自殺者のデータがあるのかどうかも知らない。世界に誇る<年金生活者天国>であり、イタリアほど若年令で年金受給が可能な国はない。(以下、内田洋子氏による)
【参考】
最近(1995)法改正が行われたが、旧制度では3年働いて60歳になってしまえば受給資格が生じ、20歳から働き始めれば、35歳で年金を受給できた。
現在でも、50代男性で働いているのは50%のみ。女性は15%のみ。2200万人の年金受給者のうち、50万人が40歳未満。
年金が国民総生産に占める割合は約19.7%。日本は9.4%。2020年には25.4%(日本は14%)と言われている。財政が破たんするのは当然である。




イタリア経済の主役は、観光や輸出産業を別にすれば、「家内業」と「副業」ではないかと思える。
どちらも所得の申告をしない場合が多いはずだ。
このうちの「家内業」は、伝統工芸制作や自家農業、飲食店、多様なショップ…といったもので、自作販売が普通だ。
これらのセールスノウハウは、伝統文化の味と力だ。日本でいえば、京都、金沢といった町の産業を思い出すとよい。それに新しい技術ノウハウを付与してゆく。
自分の手の内にある技術で生きる。これが他人に侵されない原則だが、日本ではこの芽を国策として育てなかった。


国を建てる根本に、欧米に追い付けの「殖産興業」であった時、帝国日本政府の意識にあったのは、大きな工業であり「家内工業」などではなかった。
基本的に「家内工業」を、倦まず弛まずやって2000年生きてきて、それでも世界の中心に居ることの出来たイタリア人は、自分たちの考えを全く変える必要が無かったのだと言えよう。
つまり、「家内工業」の力を日本は無視し、イタリアは最重要視した。
特に、個人の生活への視点の転換、環境問題への対応の不可避性、マス経済の破綻などを経てみると、「家内工業」の意味が改めて浮かび上がってくる。


家内工業」のベースは文化力だ。日本人がこれから注視していかねばならないのは、文化力がありながらそれを軽視、あるいは無視してきたこの国の風潮であり、行政であり、教育だ。
そう考えると、準備出来るものが多い日本の未来は明るい、と言わねばならないだろう。


現実には、そうは言うものの、国全体としての動きは鈍い。
例えば新内閣の「仕分け作業」をみても、文化的な事業への視野が低いことが感じられる。
私が理事長をしているNPO法人日本デザイン協会では、このことを取り上げて、意見書を国家戦略室へ発信している。(添付参考資料を参照)


これまでのお付き合いを感謝いたします。


*日本の貧困率経済協力開発機構OECD)の08年報告書による。これによると日本は(主要国グラフの中で)、メキシコ、トルコ、米国についで4番目で14.9%。イタリアは9番目で11.4%。OECD平均は10.6%で、フランスが7.1%、スウェーデンデンマークが5.3%となっている。





【添付資料】

内閣官房国家戦略室
予算編成のあり方に関する検討会(論点整理)
意見募集担当者様


政策提言:デザイン、建築設計、都市計画、映像メディアの保護と育成こそ
   ―文化政策をもう一歩踏み込んで―

                                    NPO法人日本デザイン協会
                                    理事長  大倉冨美雄
                                              

事業仕分け」で政府関係者の文化施策への視野の貧困さが露呈された格好だ。
理系内閣と言われるだけに、期待と危うさが同居して見守ってきたが、案の定、というところか。
期待は、脱官僚支配の謳い文句通り、「事業仕分け」の公開が国民の目線にさらされた例が示す。危うさとは、理系らしく論理的に筋が通らないことは、簡単に廃止や見直しになるのではないかという危惧であるが、当たったようだ。
ただ、文化政策の見直しをといっても、既に意見書を出し始めていると聞く演劇、音楽、舞踊、伝統文化といったいわゆる文化庁系事業のことではなく、デザイン、建築設計、都市計画、映像メディアといったいわば後発産業文化分野(以下「ソフト」産業)のことである。このうち映像メディアは、国立アニメセンターが槍玉にあがって敗退しているが、「箱もの」にしてしまったことが失敗なので、問題の本質が問われたわけではない。
総じてこれらは、個人の創意をベースにしながら、形となるには企業組織のような人的構成を必要とし、事実、企業の力を借りなければ商品化出来ない特殊な産業構造を持っている。あるいは観光行政のように、元から国レベルの関与が必要な分野だ。
これまでの大企業体制では成功した大手企業を見て、企業がこれらの面倒を見ればよいと考え、国や行政は本質的には放置してきたが、この結果個人ベースのこれらの分野は労役提供としか見られず、全部下請け化してしまった。更にそこへ自我に目覚めた若者たちがこれらの分野で生きたいと押しかけ、ダンピング対象職能になってしまっている。
ここには個人を基礎とした職業育成観の欠如があり、それは非正規社員の救済放置問題と同じ根っことなる。そこからもわかるが、教育的にも我が国は個人を基準とした芸術・文化資産の評価を軽視してきたのは明らかだ。これは明治にまで遡ることができる。また答の出る科学技術振興には配慮出来るところから、理系論理優位の価値構造を造ってきたことが、社会を「のりしろ」のない窮屈なものにもしてきた。
一方でマンガ・アニメに見るように、国が目もくれなかった分野が国際的な評価と経済的利益をもたらしていることからも解るように、今後は国策としてこれの「ソフト」産業を育成するような仕組みと予算を計上してゆくことが必須である。まして、現今の企業には余裕がない。すぐには明確な利益が見込めないこれらの分野に投資する余裕はどんどん減っている。このままでは零細業者のまま体力を失ってゆくだろう。
他方で、よく言われているように、韓国、中国は無形資産としてのこれらに目覚めており、国際競争力戦にさらされている。まもなく彼らの成果は出てくるであろう。イギリスはサッチャー、そしてその後のトニー・ブレアのデザイン政策で危機を脱したと聞く。

これまでデザインは経産省、建築は国交省、伝統文化は文科省というような仕切りできたが、この結果、知財権の扱いもばらばら、建築基準法は技術者向け、地域性無視のような事態に陥っている。これらをまとめて「デザイン省」や、「ソフト文化省」のような統括官庁が必要になって来ているのだ。
これからの日本にはエコなどを組み込んだ産業構造の大変化とともに、個人のすぐれた直観力、発想力が必要であり、これらを保護育成するルールが必要だということに気がつけば、理解は早い。
せっかくの政権交代に合わせて、日本の「ソフト」産業育成にも配慮し国力の増強を図ることを切望する。

具体的には、以下を提案する。
1:経産、国交、文科各省(場合によっては厚生労働、内閣府も)の関連分野と民間の識者を連ねた政策検討チームをつくり、2年ほどかけて政策構想への反映を検討する。
2:「ソフト」産業への重点的投資。
3:教育プログラムを作成して施行する。

平成21年11月28日


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