ミラノ・サローネのこと

【情報】  


小さいことでもデザイン史のミニ・データとして少し記録しておく。



今夜のエル・ムンドという番組で、始まった今年のミラノ・サローネの紹介が二時間に渡ってあった。
いわく「世界最大のデザインの祭典」。
期待を持って見たが、いささかがっくり。コシノジュンコさんを呼んだのは権威付けかも知らないが、このサローネはファッションが軸ではない。それでも、言っていることが順当だったのが救い。


確かこのブログのどこかに書いたが、近年のミラノ・サローネは一発イベントの集積のようになっている。日本からの大手企業の参加もあってか、ビッグイベントにはなったが、インスタレーションはもちろん、目立つものは商品もその場限りのものが多く、結局、がらくたの展示会のようになってしまう。
そこから考えても、この番組に期待する方が無理というものだが、もう少し歴史的データが保存、検証されるようにしたい。いつもその時々だけの話題に終始して終わらせてはなるまい。デザイナー集団というもの自体が多くの場合、積み上げということを知らないかのような、その場の発言や思いつきが多過ぎる。そんな考えを起こさせる番組だった。


今年の収穫は平井何とか君の、太陽光パネルの彫刻的レイアウトでサロン宮殿の通路照明を賄ったことと、サローネ大賞とかをNENDOの佐藤オオキ君が取ったこと。
佐藤君は、かって小泉産業の照明コンペの審査に関わっていた時に受賞したことで、しばし話したことがあるが、若手では本当のデザインの才能がある少ない一人と買っていた。日本人としての受賞の意味でも讃えたい。確か、出身は早稲田の建築科だったと思う。


それはともかく、上記のとおり、この番組を見ていて、ミラノ・サローネの紹介がこんな風にしか紹介されないのを知って、少し記録的なことを書きとどめておく必要がありそうという実感を持った。
後から順次付加し、年代などを考証していくこととし、発展初期のことについて少し記録しておく。それは1970年(昭和45年)から80年(同55年)にかけての10年あまりで、ちょうど僕がミラノにいたころと重なっている。
この時期はデザインがその「正当なあり場所」を得たかのように高揚し、いい仕事があちこちに見受けられた。また日本人は珍しがられるとともに、この国(日本)のデザイナーは真面目な性格といい仕事ぶりが評判を呼んでいたようで、ちょうどアメリカでトヨタ、日産、ホンダ、ソニーなどがブームになり始めたころもあった。レストランのサービスおじさんまでが、「マーデ・イン・ジャパン」などと言って、財布を忘れた僕の食事代を、「今度のときでいい」などといってくれた時代だった。(「マーデ」とは英語を知らないイタリア人がローマ字読みした「メイド」のこと。余談だが「カロル・バカ」と言って、何のことか分からなかったインテリ風の女の子がいたが、「キャロル・ベイカー」のことと判って大笑いだった)。


ミラノ・サローネは、番組で紹介されたように、アキーレ・カステリオーネらが形を整え、家具、照明器具を軸に発展してきたが、当時そこに居合わせた日本人デザイナーは、やっと工業デザイナーとして社会的地位を得始めていた日本を飛び出してきた若手何人かに代表される。従って彼らは建築家ではなかった。
最初に飛び出したのが、蓮池槇夫であり、細江勲夫だった。次が川上元美であり、喜多俊之。僕はその後になるのだろう(出入り、付き合い始めの差があるので正確ではない)。他に何人かいるが思い出したら追加する。蓮池氏の前にも誰かいたのかも知れないが、当時、ADI(イタリア工業デザイン協会)で教えてもらった人脈がそんな所だった。僕の後はフォローしていないが、どんどん増えていったのだろう。
マンジャロッティのところに川上君がいるのを知って、僕はカルロ・バルトリを選んだ。蓮池、細江両氏とは何回かの交流があった。この二人はミラノに残り、後は帰国し、活動の場を日本に移した。
この時代に、アメリカ輸入でない工業デザインの夢を与えてくれたのがdomusなどで紹介されたイタリアン・デザインで、マリオ・ベリーニ、ヴィコ・マジストレッティ、エンツォ・マーリ、トビア・スカルパ、リチャード・サパーなどだった。マリオ・ベリーニの他に建築家でこの分野にも関わったのがアンジェロ・マンジャロッティだった。しかし、マンジャロッティはすでに先の世代に属するというべきだろう。
もっともそうなると、ジオ・ポンティ、ピエール・ルイジ・ネルヴィ、リカルド・モランディなどの建築家・構造家が活躍していた時代に入って行き、その構造的でありながら美しい建築物に惚れた時代があったのも確かだ。
この時代がミラノ・サローネの存在が社会的に確立した一つの黄金時代だったと言えよう。現在も市販されている主要な家具や照明器具はほとんどこの時代に発表されたものである。(関連記事は拙著「デザイン力/デザイン心」を参照されたし)
僕らの仕事が、所長の許可を得たり、独立したりしてちらほらと出始めた時だった。
当時はまだイタリア国内のサロンで、この時期に全国の家具屋が一斉にミラノに集まったのだった。承知の話かも知れないが、イタリアの企業は小さく家内工業的なものが圧倒的で、しかもショップだけのような商店も多いので、このようなイベントがあると、ここで買い付けをしてしまうので、相当数の人数になるのだ。


それにしても、こういう情報はもう古臭いか。やっぱりオヤジ世代の残りカスを吸って生きているようなものかな。
ちょっと気が引けてきた。