犬も歩けば

【日記】




犬も歩けば、安らぎを…でも、犬のことを書いて何になるのだろう?やはり人間のことの方がはるかに面白い。


自宅の柴犬はすでに13才のオス。「マサル(勝)」という。その割には元気で闊歩する。
見た目には意外と小さい。たまに「ミニ柴ですか」と聞かれる。
事務所では所員が誰かが15分ほど夕方のマサルの散歩をすることが日課。かって「犬の散歩まで業務に聞いていない」ともめたことがあって入所の時に確かめてきた。事務所本来の仕事ではないが、誰かがやらねばならず、気分転換と自発的な協力を意識して、やっても良かろうと判断、お願いしてきたものだ。おかげで、すごくマサルをかわいがってくれた所員もいる。
退所した元所員の方がこのブログをみてくれていたら、当時の協力を感謝します。あいかわらず元気です。


今日は昼日中、コンビニへの買い物に連れてゆく。
買い物をしている間中、歩道の柵に留めておく。
買い物を終わって出てゆくと、女子大生位の二人が、かがみこんでマサルの携帯写真を撮っていた。
「かわいいー」だって。本犬はそれも心得ずに、一見おびえたように、あるいは無視の姿勢でただ突っ立っている。
「おい、褒めてもらっているんだぞ。何とか態度に表せよ!」と僕。
もっとも柴犬がかわいいというのは言葉が間違っているかも。獰猛(どうもう)ではないが、りりしいとか。
女子大生二人としばし会話。確かに、手入れをし、家の中で飼い、一日三回散歩させる。夜はだいたい40分は歩く。
なまじの手の入れようではない。それだけに愛着も湧き、実際自慢の犬だ。こんなこと自慢してどうなる。


こんなことが人生じゃない?(これが人生だろうという意味)そうなんだろうか?自分の生活の幸せ感は、実は、空しさの裏返しの自慰行為なんじゃないだろうか。


ミラノの生活を始めて、すぐに感服したことがある。それほど見かけないが、犬が立派で賢いのだ。
まず、その毛並み。つやつやと光っている。次にボデー・スタイル。肥満体や変な体型の犬は少ない。それに一般に日本で飼われているよりはるかに大きい。
次によく手なずけている。公園でよく見かける犬はほとんど放し飼いだが、主人の口笛や声一つで身の不振り方を知っている。
犬の飼育も教育のうちだし、飼い主の美意識の問題だ、とつくづく思った。飼っている人は経済的にも、時間的にも、相当ゆとりがないとこうはやれないと思わせたが、犬と共にある歴史の深さのようなものを感じさせた。
そこには歴然と、犬は人間に従って調教されるべきものだ、という決然たる鉄則があるようだ。
日本ではどこか、動物はある程度は自分勝手に生きるもの、それが犬猫の法則であり思いやりであるかのように考えられているところがある。
こうしてみると、犬と共にある人生の意味が、大変深くなる。


マサルは眺められ、フンと言っているが(か、どうかは知らないが)、人間にとってはそれで癒される。
犬の真の存在意味って他にあるだろうか?


やっと暖かくなった路上で、小さな幸せを感じる。それはある意味で確か。でも、それで本当に幸せだったのか。
この犬も、かく言うこの僕も、そのうちに地球から消える。
この一瞬は還らない。「かわいいー」柴犬の存在が呉れた人生の実在の実感。うーん、持って廻った言い方だが、ここだけは許そう。