「そーかい」が、あるカーブを曲がった
【論】
「そーかい」というのに出て見た。
「そーかい」が盛んな季節だ。 「あァ、そーかい」の「そーかい」ではない。「壮快」でもない。「総会」である。
役員でもないのに、こういうものに出て3時間近くも問題を探っていくなり、居眠りしていることはかなり辛いことだ。
「出て見た」とは言ったが、もちろん初めてではない。しかしこの「総会」にはしばらく出ていなかった。
今日、なぜ出たかと言うと、立場上の責任感と、もう一つ気になる評決があったからだ。
その議案と言うのは 「会員規程の改定」 というものである。
そうは聞いても、これが、「一級建築士の免許登録後5年以上設計監理業務を行った建築家」 を 「正会員」 とする、という条項の入った議決だと聞いて、もう読む気が無くなる人もいるかも知れない。
ところが、もう少し頑張ってみると、この国の未来にとっても実に大変なことを議決しているということが判ってくるのではないかと思う。 勝手かもしれないが、そういう思いを込めた判断の分かれ目にある問題だと思っている。
もうお判りだろうが、「社団法人日本建築家協会(JIA)」の総会なのであった。50人ぐらいしか出席はなかった(もちろん、大多数は書面評決のためだ)。
この会員資格質疑の後半に手を挙げてみたが、議長が、同じく手を挙げていた私の左右の2人に発言を求めた後では、さらに手を挙げる気力がなくなった。中央の挙手には気を取られなかったらしく、時間が押していると思ったのか、これで…と言い始めたので、更に引いた。というのも、似たような発言はすでに2、3人から出ていて、こんな時になって、また上澄をすくうようなことを言う必要もないだろう、という気持ちになってしまったからだ。
それにもう一つ、憶測がある。 私の言うことは、良く言えばより本質問題だと思うが、現場感覚からすると何を今頃、宙に浮いたようなことを言っているのかという乖離感で、審議を混乱させてしまいかねないという予感だ。 会場を見渡しても、この審議一つでJIAがひっくり返ってしまうような危機感に襲われている風には感じられない。 言い方を換えると、みんな私のようには考えていないようだった。一級建築士資格を持つのは当たり前じゃないか、と。
このブログを読んで下さっている方々でも、「何でこのことがそんなに問題なのか」と訝しく感じている方もいるのではと思う。
いまここで、この話を蒸し返しているのは、この時の何とも言えない思いが残って消えないからだ。 今さら書いたってどうしようもないだろうにと思いつつも、他の時間を削っても書いておかねばならぬという気になっている。 どんな事を言おうとしたのだろう。 思い出すままに、主旨ポイントだけ書き連ねてみよう。
「公益法人への移行のために、役所(あるいはその代理業務者か)と話していて、曖昧な表現が許されないということで、このような言い様になったとのことだが、それで済むような問題か。
構造、設備の設計士がそれぞれ新しく国に認知された中で、中核である建築家の業務そのものについては放って置かれている。その核は、あらゆる設計技術をこなした上でも残っている、本質的な意味でのデザイン(クリエイティブ)なのだが、JIAの正会員規程を 『一級建築士でなければならない』 とすることによって、日本を代表する(と会員が勝手に思い込んでいる)建築家団体が自ら、日本の少なからぬクリエイティブ能力の高いプロや若者を切り捨てていくことになることが予感される。国が、一級でなければある規模以上の建築は「設計してはならない」としているからで、それに単純に迎合したからだ。今後、日本に残されているのは、そしてより大切に評価、育成されて行かねばならないのはこのクリエイティブ分野だというのに。
会員規程が条件としている当の一級建築士の試験には、承知の通り、クリエイティブ能力を評価するものは何もなく、技術能力か暗記力だけである。 反対にクリエイティブ能力が高くなるほど技術的知識まで追っかけていられないという一般傾向があり、よほど注意してサポートしてゆく必要があるのだ。
この場には若い人はほとんどいないことをよく考えてほしい。(私見では、もう多過ぎるとして門戸を狭め、一段と技術的ハードルを高くしている現今の一級建築士試験事情を知っている人はこの場にはほとんどいないのではないか。逆にこの改定では、リベラルな建築家像を抱いてきたJIAの伝統を、夢を抱く若者たちが知らないままで終わらせることになる、という意味を込める)。
公益法人受け入れと引き換えに、理念を形にして交換条件として提示することもなく、建築家が本来もっているべき、そして守ってゆくべき資質を売り渡すことになることを覚悟しなければならないことを皆さん、ご承知なのか」
この会員規程評決の質疑には、4、5人ほど質問があり、最初は小倉善明氏で、「現在の会員で一級を持っていない人はどうなるのか」と問い、それは「救われる」と聞いて納得した様子だったが、今後の問題には言及していない。出江寛氏は例によって本質に近い「演説」をして湧かせ(刺青もいるかも知れない他会と一緒になるな、など)、椎名政夫氏は確か、「クリエイティブな能力のあるものを拾えない、外国で勉強して帰ってきた者をどうするのか」という主旨の意見を述べた。この前後に森岡茂夫氏の「これでいいのだ」という意味の発言があり、執行担当者たちからそれぞれ返事があった。(非公開の場とは考えにくいので、人名を出させて貰ったが、失礼があれば取り消したい)
審議は打ち切られ挙手による評決に入り、「賛成多数により」 本件は可決された…。
もちろん私は手を挙げなかったが、多勢に無勢。
繰り返すが、見渡すと会場にいたのは白髪交じりの年寄や中年以上ばかりで、若者は居なかった。当然、日本語が十分判る外国人建築家(国際比較の評者としての譬え)なども居るわけがなかった。
JIAの行く先に暗いものを感じざるを得なかった。
この総会で我が愛すべき建築家協会は、あるカーブを曲がった。 もっときつく、「ルビコン川を渡った」というべきなのかも知れない。
クリエイティブ力の根本には、ある種の混沌をも容認する部分がなければならない。
席を立つ前の出江さんに挨拶している人がいたので、通りすがりに投げかけるように、ついつい、「JIAも終わりですよ」と言ったら、嬉しそうで、もっと話して頂けそうな表情に。未塾者相手でご迷惑と思い、後がお有りと思って遠慮したが、時間を取るべきだったのかも知れない。(出江さんとは前期会長就任時に意見書をお送りして以来、面識があり、しばらく前の機関誌では同じようなこと―JIAは数年で駄目になる―を言っておられる)
会議場を出ての帰り際に、この後に続く懇親会を控えた芦原太郎会長としばし語る場があり、上の主旨のようなことを急ぎ伝えたが、「50%、50%で判断して行けば…」ということで、「それは今後の課題でしょう」と言って終わった。じっくり議論するような場でないので残念だが、JIAがこれで行くなら、一級建築士30万人のうちの5千人のロートル世代で諦める技術者集団でしかないだろう。
「参考」
本ブログに関係する記事のフラッシュ・バック
思い出すままに、例えば現在の設計業界の社会的背景を知る意味では:
2008/4/8改正建築基準法はいらないという目覚め
〃 4/12「改正建築基準法はいらない」の続き
2010/6/28「デザイナー・建築家の生き残れるプラット・フォーム」
2010/7/3「日本のデザイン建築設計者よ、立ち上がれ」
2009/9/5「山本理顕氏の苦渋」
設計料がからむ問題としては:
2008/2/9「建築士の悲惨」
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