河井寛次郎がわからぬ

【論】



何で「土管」や「宇宙人の顔」のような造形になったのか


河井寛次郎の陶器を紹介する番組があった(昨日4月21日NHKEテレ午後8時「日曜美術館」再放送)。

陶器は嫌いではない。でも変なものがあるのも陶器だ。それを熱心に「生産」した一人が河井寛次郎ではないかと思っている。
好きではないと言ってしまえばおしまいかもしれないが、そうはいかないのが、河合の影響が凄く大きそうだからだ。それに生産性や機能を承知した上で、それを越えてカタチの「原点」に迫ろうとした様子が見えることもとても気になる。
そこにはバウハウスがたどり着いた考え方に近いものがあるようにも思える。民芸が辿った道でもあるから当然かも知れないが。

河合の作品の多くは、どこかオドロオドロしい。放送の案内でも「土管?顔?まさに自由奔放!」とある。どういう心理、どういう哲学であのようなものを創り続けたのか。
最近発見されたという、単純な小球体だけの焼物があるが、何と正方形の薄板のイメージの「土台」と繋がっている。それは全体造形としては見えなくて、あくまで土台にしか見えない。
そこには「レス・イズ・モア」を天命のように信じてきた僕らが間違っているかのように堂々たる意味付けがまかり通っている。
こういうエッセンシャルな小品を見ても何か違うのだ。


焼き上がりを読み込んだ塗料への研究と実作上の効果については言うことが無い。ほとんどオールマイティに見える。陶器をこのような視点から見ている限り、巨匠には違いない。
それに「人間国宝を拒んだ陶芸家(の)民芸への目覚めと苦悩」という付言に見る人間の誠実さ、潔癖さ、研究熱心にも恐れ入る。やはり唯者ではないのは十分に判っている。それでも、造形としてはどう見ても三流にしか見えないのだ。
(思いつくことあれば後記)