ピカソの女性遍歴による創作意欲

【新トーク:アート、但し部分カットの上】 (写真:ピカソ最後の自画像)



ピカソの女性遍歴による創作意欲



このテーマは、既に語り尽くされている。
また、ここで語るようなテーマかとも思う。
個人の性欲・愛欲の問題や病気、金銭事情、子の養育、親の介護、身内の遺産相続などの相克による問題などは表向きには語られないことが多いし、本人にとっても秘匿の事情だろう。しかし実際には、あらゆる個人に付いて回る問題であり、これを明るみに出さないと本当の人間性はわからない場合も多い。


この夏休みに、読んでいなかった「同業者」の書いた本2冊を通読、ついでに「ピカソは本当に偉いのか?」(西岡文彦著・新潮新書)を読んだので思い出してしまった・・・先の2冊とは、「神のデザイン哲学」(鈴木エドワード著・小学館)、「伝統の逆襲」(奥山清行著・祥伝社)で、後ほどコメントを入れる。「同業者(正確には近似か)」の書いた本を見た後では、とてもピカソの女遍歴などを話題にしている余裕は無い、失礼だ!というような気にもなるが(笑)。でも、こういうことがまさしく日本的な「公認された躊躇」なのだろうと思い、敢て挿入する。


思い出せば、パブロ・ピカソのことなど大学生の卒論程度でも相手にするほど広く話題性を持っているテーマだと言えよう。何を今更、だ。それでも作家個人の情念にまつわる部分を、同業者感覚で問いつめている西岡氏(ご自身が美術作家である)の著書を読んでみると、改めてどうしても「ちょっと言わせてくれ」という気持ちになってしまった。


ピカソが本当に偉いのか」については、個人的には「そういうフィクショナルな経済構造を生み出したアート市場がおかしいのであって、それに乗ったピカソを偉いとか、偉くないとかは言えない。ただ、歴史的な時撰を得たことや、市場や画商との、売値つり上げ交渉に抜け目のなかった商人力については、絵画作品を離れた問題として評価が別れる」という心境だ。だから大問題になる哲学や美学や絵画論、あるいは社会学の問題でなく、彼の人間としての生き様を眺めるほうが身近かで興味深い。ある意味で「絵のことは判っている」のだから。
特に下世話で面白いのが、ピカソの年齢と、つき合った女性たちの年齢を創作意欲から比較してみる事、それにピカソが抱いていた女性観の根底に在るもの、そして「女を相手にしていれば創造力が充満する」とでも思っていそうな芸術観の行方だ。
まず、結婚した、しないは別にして、生活を共にした7人の女性たちとその時のピカソの年齢や特徴、関係事項を記す(とりあえず、西岡氏の文章での判別だけによる。別れは情の絡むものだから、年次は何らかのきっかけにしか過ぎない)。
フェルナンド・オリヴィエ(  〜  )/(  〜30才):夕立を避けて洗濯船の軒先に入ってきた。経済的成功とともに冷え込む。
マルセル・アンベール(26才〜29才)/(30才〜33才):フェルナンドを捨てピレネー山地の避暑地セレに移住・病気で死去。
オルガ・コクローヴァ(  〜  )/(35才〜45才):高級社会育ちのロシア・バレエ団のバレリーナ。舞台装置を手がけて、社交界に食い込むためにアタック。育ちの違いがもとで破綻。
マリー・テレーズ(17才〜27才)/(45才〜55才):地下鉄の階段を昇ってきたところを、君の絵を描きたいからと誘惑。パリ郊外に城館を購入、愛欲に耽る。結婚を信じて1女を生む。
ドラ・マール(29才〜36才)/(55才〜62才):健康的な野生児のマリーに対して、退廃的な知性をたたえた美貌の持ち主で写真家、に魅せられる。
フランソワーズ・ジロー(21才〜31才)/(62才〜72才):画学生だったフランソワーズにカフェで出会い、デッサンを見せにくるように誘う。結婚を信じて1男1女を生む。
ジャクリーヌ・ロック(35才位〜54才位)/(72才〜91才死去):(当面何が魅力だったのか不明)。2度目の正妻としてピカソの番人となる。


何だか、こんなこと書き並べてどうなるのか、という気持ちになってきた。
ただ、ピカソの恐るべき女への執念のようなものは感じられ、その意味での人間の業の極地を知れる。
それは法も、論理も、社会的使命も、養育義務も、カネの問題ももし無ければ、アニマルとしての存在になって生きてしまいそうな人間の裸を実践してしまった男の姿でもある。彼にとっては創造力は生命力であり、それは性力であったのだ。一回限りの生をどう生きようが個人の勝手だが、ここまで女を通して生の執念を現実化した男を知ってしまうと、比較のしようも無いが、何も出来ずに平々凡々と生きている自分を思い動揺する。
それはもしかすると、在伊経験による個人主義への近接が教えるものもある、のかも知れない。平々凡々というのは、すっかりしがらみと他力依存の(それが当たり前だから誰も拘らなくていい平和な)日本人の生活に慣れきってしまった(女との恋の諍いさえも避けようとするような)環境を言い、その気になればそれはそれで落ち着けるが、自分の本意に合っているのかということだ。


マリー・テレーズとドラ・マールの取っ組み合いの大げんかは有名だが、これを仕掛けたのはピカソ自身であり、これを実見して友達へ手紙で「あんなに面白いものはなかった」と言っている。また「フランソワーズの出産は、・・・ピカソが結婚の条件として突きつけた」ものだったが、「二児を産んで病弱になったフランソワーズの体をピカソは、痩せて女らしくないと責め、女がそんなに病気をするものではないと諭し」た。「女は苦しむ機械だと言った彼ですが、その苦しみは、彼が引き起こした感情的葛藤である場合に限ってのみ関心の対象となったのでしょう」とは、恐るべき個人主義ではないか。それなのにか、それを越えてか、ピカソが亡くなってから40年近くなり、90才を前にしたフランソワーズは、自分への恥辱、屈辱をすべて許すかのような「晴れやかな表情」だったという(同上書)。「俺の名前と財産を使って、性愛と共に現世に生きる意味を高められたんだろう?」と言わんばかりの圧力を甘受したのだろうか。
かの地では女も個人(女という性)を軸に生きているという意味では強い。そこで男も、女性をある独立した存在として認める代わりに、男と同じような要求や期待を突きつける。そういうパターンを持ちながら、むしろそういう認識をもっているからこそ、男は「女の武器」を認め、評価するようなことが起る。もちろん、ある部分は日本だって同じ事だろう。ただ、今のこの国では恥として一生懸命隠そうとする。ピカソはそういうことのない国で、血の見えるような日々を生きたのだろう。

そのことは、生=性が充実したかに思えれば思えるほど、死への意識、特に死を避けられない絶望感が実体的に見えてくるということではないか。その核である性交能力に自信を失えば、すべての生命力、つまり創造力の枯渇を宣言された気にもなる。

西岡氏も取り上げているが、ピカソが死の前年に描いた最後の自画像を見ると、その漫画のような描写のうちに、カネを持ってしてもどうしても買えない性力=創造力に枯渇した、絶望的なおののきが現れているように見える。