神のデザイン哲学/鈴木エドワード

【論】  (映像:テンセグリティ構造の写真)



神は存在するのか、という議論に立返るのだろうか




鈴木エドワードさんとは、仕事と名前を知ってからも20年以上面識は無かった。英語名からも知っている人は少なくないだろう。
このたび、縁在って面識を得、最近発刊された彼の著書も手に入れた。
それを読んでみて、僕とはずいぶん違うな、という思いに捕われた。
彼の仕事を知ったのは、まず麻布十番辺りの大きな交差点(東京港区)に建つ、曲面孔開きアルミパネル張りの大きなビル「ジュールA」(1990)でなかなかバブリー、その後、「東京倶楽部」(1992)、ずっと後になって「下鴨の家」(2006)とかで、センスが良くなっているなと思っていたので、考えにそんなに差があるとは思っていなかった。
ところが著書で知った彼は、そんな建築、建築と騒ぎ立てるような専門職者とは大いに違っていた。
いったい、何が違うのだろう。そこを読み解きたい。


まず彼の考えは、結論から言えば、持ち前らしい科学者とも言うべき思考とその脳によって、行き着くところ、この世のあらゆる現象を「神」の所作として捉えようとしていることにある。
「神」と言った途端に議論百出になるだろう。そこを勇気を持ってか切り込んでいく。
そのストーリー展開は決して変なものではなく、常人をそれなりに納得させるものだ。自然現象を科学的に分析し、総合し、導いていった多くの科学者の結論から、彼自身が導きだしたものが「神」の存在である。一般的にも科学を究めた者が結局、宗教を認めるケースは良く在るだろう。彼の場合もその例に合っていると取るのは無学な者の僭越だろうか。
バックミンスター・フラー(20世紀を代表する構造家で発明家)に心酔した彼が捉えるこの世のあらゆる構造の根本が、フラーの発見した「テンセグリティ構造」(後で説明)であるとし、宇宙の均衡にもその延長上にある引っ張り力はなくてはならない存在だと言う。
ここに一般に僕らが建築家になろうとするときに、よくたどる手順(例えば建物の外観印象などのイメージから入る)とは違う、早々と空間構造に目を付けた彼の個性と才能が感じられる。建築はベースが構造だから、いち早く建築の本質を理解できる資質を身につけたと言えよう。その上で彼は言う。

「神はすべてを引っ張り力で関係づけるようにデザインしたのだと思います。そしてその究極の神のデザインは『愛』という引っ張り力で生きとし生けるものをつなぎ結び付け、関係性を保っているのだと思います。私は『愛』こそが、神が創造したこのテンセグリティ宇宙の偉大なすべてを結ぶ引っ張り力だと思うのです」
ということで、「愛」も出てくる。
それゆえ、そこまで行くと、本書の副題(あるいは主題)が「GOoD DESIGN」(神のデザインがいいデザイン、と掛け合わせ)とした理由もうなずけてくる。
「建築家の私が世の中のことを考えて語る本書に『GOoD DESIGN』というタイトルを付けた理由は、この宇宙は―物質宇宙だけでなく見えない宇宙も含めて―『神による最大の建築』だと思うからです」。


ここまではこの著書の後半を中心に読了して判断した、「僕の把握した鈴木エドワード」だ。
彼の抱く壮大な宇宙観にしばし圧倒され、これは珍しいイメージを持った建築家だと思わずにいられなかった。特にテンセグリティ構造に代表される既知社会のテンション(引っ張り力・張力)構造に思いを寄せ、そこに引っ張り力がもたらす人間と社会の本質を見た辺りは、とても僕には思い至らない。せいぜい引っ張り力は「本質」ではなく、「アナロジー」でなないかと思われるのだが、どうも彼の哲学、あるいは思いはそんなものではないようなのだ。
僕には、テンセグリティ構造は物質の存在理由の根源の一つではあると認めてもいいいが、美や愛、更には神とそれを結び付けてしまうことはとても出来ない。そこに科学への信仰度の違いがあるのだろうか。結び付けてもかまわないが、それは己の主観だとしか思えないのだ。テンセグリティ構造を愛だと言えるのか、と思ってしまうのだ。
そもそも、科学で分析、あるいは読み込んでいくと「美」への直感に至るのだろうか。
そういえば、彼は「美」という言い方をほとんどしていない。また「視覚」や「体感力」のような言い方もほとんどない。もっぱら、数のマジック、原子構造、同軌性(「虫の知らせ」から始まって「宇宙のバックグラウンドには一つのリズム、波動呼吸があり、それに自分がシンクロナイズすれば、すべてがより良くいく」と考える彼の言うシンクロニシティ)、水や竹という基本構造「素材」への視点、そしてアインシュタイン相対性理論に行き着く。算数の「クリスタルな美」には目覚めたものの、空間がそういう類のもので出来ているなどとはとても思えなかった僕とは大違いだ。
それでいて、彼の仕事には十分共感できるものがある。「美」などいっさい語らずに科学的な宇宙観を語っているのに、結果として共感する仕事がある。これって何だろう。
一つわかる事は、彼の場合、神や愛と言うまでは、常人の理解できる科学的精神とそこからの絶対を求める心だから、一般理論としてスタッフや周囲、更にはクライアントや一般社会の納得を得やすいと思われることだ。僕の場合(どうしても自分が出てきて勝手に同列で比較してしまう。申し訳ない)は、個人的な経験や、体が判断する感性に依存してくるために、個人主義的で主観主義的になりやすいのだろう。
彼からは、科学を極める思いが深いという側からでも(言い換えれば、美の原理のような得体の知れないことを持ち出さなくても)、視覚や五感で判断するいい空間設計が出来るのだ、ということを教えられたような気になった。結果がよければ過程はどうでもいいなら、これ以上問いつめられない。


それにしても、こうも違うのは育ちの違いのせいか、といったらおしまいか。
彼は最近でも、「パパス」という中高年向きのメンズ・ウエアのコマーシャル・モデルになったりしている美男子で、一見外国人である。父親はドイツ人とのことで、ジャーマン・メンタリティが入っていることは想像できる。日本人のように感傷的でアバウトでなく、理知的で論理的だ。神なんてそこらじゅうに居る、とか、神なんて信じないというのとは訳が違うようだ。
それもあろうか、フルブライト留学生応募面接の時に、アメリカ側の審査員は全員彼の留学を認めなかったという。その理由は以上のような背景から、エドワードは留学条件である修学後の帰国を守らないに違いない、と取られたのだ。実際、アメリカで働き始めてしまい、それを結果的に引き戻したのが、イサム・ノグチの手引きによる丹下健三の「ウチに来ないか」という手紙だったという。
(まだ一言ありそうなので、後述するかも)


テンセグリティ構造―フラーの考え出した、棒材による対圧縮力構造材と、ヒモによる引っ張り力を出す構造部材の組み合わせで、空間を作りうる基本構造である三角型の組み合わせになるように組んでいくことで得られる立体のこと。棒材どうしは接触させず、ヒモの引っ張り力だけで支えられる。このため、ヒモの飛ばし部分を長くすることと他の棒材に引っ張り力を受けさせることで不思議なタワーを作ることが可能。テンセグリティとは、テンション(張力)とインテグリティ(統合性・完全性)を組み合わせた造語。