自分の能力を十分発揮できる機会にめぐり会うために必要なこと

【日記】



「作家」と建築家・デザイナー



猪瀬前東京都知事の退任騒動について曽野綾子が、ある川柳を引き合いに出して「作家」の進退を論じていた。その川柳とは、
「作家だろ もっと上手に嘘つけや」
彼女でなくとも笑ってしまう。


彼女はこう言う。
「私も将来何か事件を起こしたら、二つのことを心がけます。捨て身になって本当のことを仔細に語るか、それとも文学としてもどうにか通用するような、よく構成された嘘を作るかです」
そして、「作家」とは、「自分の内面の弱いところや汚いところから目をそらさず向き合い続け、作品を生み出す、いわば究極の私人です。公人の最たるものである政治家とは、根本的に向きが違いますね」と言う。(週刊現代2014/1/4・11号「猪瀬さんを見て思うこと」)


彼女にしてみれば「作家」とは、あくまで自己完結な小説書きのような存在を言うのだろう。そして、勝手なフィクションで人心を惑わせることも認められているのだ。
ところが建築家やデザイナーには、顧客、クライアント、依頼者など、どういう呼び方でもいいが、自己完結できない相手がいる。それでいながら、完成した建築物やプロダクト商品について「誰々の作品」と言っている場合が多いのだ。その場合のクリエイターは暗に「作家」として想定されていることになる。
また、相手がある職能なら、「公人の最たるものである政治家」的な存在も無視してしまうわけにはいかなくなるだろう。


ここで、我々が曽野綾子の言う「作家」とは根本的に異なることが明らかとなる。
この「作家」という言葉の持つ魔力への認識の違いと混同を、普段我々は平気で見過ごしてきている。
建築家もデザイナーも、成された仕事をメディアで紹介されるときには多くは「作家」扱いになるが、この区別を深く認識していないことによって、双方、つまり受ける方と生み出す方の両方ともが誤解と先入観に飲み込まれてしまうのだ。
つまり受ける側は、あくまで「作家」の作品として見ようとしてしまうし、建築家やデザイナーでさえも、「作家」の作品として受け取ってしまう。
「作家」の作品でいいじゃないか?
それはかまわないが、我々のそれは曽野綾子が言う「作家」のような条件設定にある「作家」とは大違いであることが、ほとんど注意されていない。つまり、いつまでたっても職能の本懐が社会的に問題にされなくなってしまうことに問題がある。


いい仕事をしたい。それにはいいクライアントに遭遇することが必須の条件だとするなら、メディアを相手にする建築やデザイナーは、「作家気分」や「作家気取り」でいいとする前に、「作家」として自己完結できない相手が存在するために、己が日常出会っている大変な調整苦労が含まれていることを無視するような誤解と認識に、(一般社会とメディアの)注意を喚起する必要があろう。
事実、社会のシステムは複雑さを増し、このような新しい形の職能の存在や出現も、当事者たちがうまく広報すれば認知される状況になっているはずだと考えたい。


自分の能力を十分発揮できる機会にめぐり会いたい。
このためには、現社会に通用している既存の価値概念に風穴を開ける戦略と団体的な努力が必要なのだ。