ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ―忘れられぬ心象風景

【日記】



ピュヴィス・ド・シャヴァンヌを知ってますか。




ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(以下シャヴァンヌ1824-1898)のことは、長い間、不思議な思いで心に引っ掛かって来た。
何がかは、よくわからない。
古臭いようだが、忘れられない。
古典的な天使や聖人の物語をテーマに描いているのだが、生身の人間臭さもある。
色使いも朦朧としていて、明確な色や形が無い。
そういえば、風景に点在する人物にも樹木にも蔭が無い。そう、太陽光線が無いのだ。
池は静まり返り、波紋も無く、空はいつも曇天の夕暮れ時のようだ。季節も冬か夏だけのよう。
これって死の世界ということか。
そうだ。これは冥界の視覚化だろう。
それでも、そこには実に静謐で人を引き付けて止まぬ「深い空間」がある。


作品のほとんどは、壁画としてフランス国内の教会や大学の空間に収められた。
壁画といっても、フレスコ画のように壁自体に描くものではなく、展示スペースに合わせて作られたキャンバスに油絵の具で描き、それを設置したようだ。また本人は、それとは別に、多くの場合、同寸や縮寸の同じ絵や、多数の下絵を残している。


現在、渋谷の東急文化村ザ・ミュージアムで、よくまとめらた展覧会をやっている。(3月9日まで)
こんな機会にめぐり合えるとは思っていなかった。
なぜなら、ほとんど知られていないと思っていたからだ。事実、大学で美学を専攻した我が奥方に、「シャヴァンヌ、知ってる?」と問うたら、「誰?それ」だった。


最初にシャヴァンヌの絵が焼きついたのは、「貧しき漁夫」という作品だった。中学生の頃か。
これは知っている人も多いだろうが、入り江だが、波も無い沼みたいな荒涼とした岸辺で、ガリガリに痩せた漁師が、投げ網引き用の傾いたポールのあるボートの上で、祈っているかのように突っ立っていて、岸の上には母親と赤子が「うごめいている」ような絵である。例によって曇天で陽の光は全く無い。


この寂しさが窮まるような風景が、イメージとしてずっと忘れられなくて、なぜだろう、なぜだろうと自問してきた。
テキストを購入したのだが、まだ読んでいない。(余談だが、このテキスト=図録は島根県立美術館の制作だが、グラフィックとしてみた状態では、とてもよく出来ている。地方美術館の存在感が感じられる)
黒田清輝らが、会っているのも意味深い(1893)。
「貧しき漁夫」も1914年(大正3年)頃、国費でフランス留学していた小林萬吾によって模写されている。
時代の差と言ってしまえばそれまでだが、2月11日に書いた猪熊弦一郎などと比べると、「死を意識した生」とでも言うべき、その精神性の深さは比べようもない気がする。
制作年代の社会事情や、競合作家など、時間があれば調べてみたいことが多い。