アンディ・ウォーホルについて

【日記】 ●印に3月13日の追記があります。



アンディ・ウォーホル:一回の人生を賭けたギャンブル



よく知っていると思っているが、念のため、足早に見てきた。(六本木ヒルズ・森タワー内)

よくやったものだ、というのが感想。それはヴォリュームと賭けについての意味。
ただ、それは先のシャヴァンヌのように、自分の創作内面性との関係で考えさせるものはない。
誰か一人、こういうことをやるのは許されたが、もうやってしまった。それも、不確かにしろ始めてみた個人の主張を、広い心で受け入れるアメリカ、特にニューヨークという場所と時代があったからこそだという実感が伴う。
彼の言うように、何も考えないで思ったように表現すればいいのだ。ただそれを実行するには、そういう下地と、伝統や習慣に囚われない思考と行動力が必要だ。


仕事量とバラエティには感心するが、気持ちよく心に残るようなことはない。
グラフィック・デザイナー上がりという職能的な親近感はあり、メディアへの対応策や表現技術は参考になるが、表現内容については、一切真似をする必要はない。
そう心に聞かせて会場を後にした。





●ふーん、ジャン・ボードリヤール(以下JB)も、こんなことを言っている。

「ウォーホルは、芸術が非常に重要な転換期を迎えた時点で、さまざまな変化に先駆けて、自分を最先端に位置づけることができた唯一のアーティストだった」!
 さすがJB。判っているね! ただし、恥ずかしながら1996年に本書が発行されながら、そしてJBが「現代美術を無意味」と言っているらしいとは知りながら、自分の問題意識には至らなかった。デザインで頭がいっぱいだったのか、何を考えていたのか、これからの検証が必要だが。


「彼の行為は、マルセル・デュシャン(1887〜1968)以後の世界を再考することだったが、それは、私たちが現在到達した一時的な地点のレベルでは、作品をつくることではなくて、むしろ、人類学的出来事に属する行為だ」 うーん、判ったような気がするが。ちょっと翻訳が気になる。
「ウォーホルは、私にとって、現代性(モダニティ)の創始者だ。…(彼は、)美的なものや芸術から私たちを解放したのだから…」 その通り。
ラウシェンバーグ(1925〜2008)やリキテンスタイン(1923〜1997)の話から、「彼らのやったことは再美学化の試みだったが、ウォーホルの場合は、残りかすじゃない。実体そのもの、あるいは非=実体そのものだった」
「それはまた、まったく外面的な装いであり、ラディカルなスノビズムであると同時に、全面的な非・外面化でもある。世界を無視する絶対的な無邪気さだ」
最近のビエンナーレの話などから、「…美的なものが失われても、それですべてが失われたわけではない…。これまでのあらゆる文化は、美的なものの喪失を乗り越えて生き延びたのだから」
(「芸術の陰謀」―消費社会と現代アート塚原史/訳、NTT出版より)