建築家に何が出来るのか

【論】 (仮原稿のまま記載してしまい、申し訳ありませんでした。以下に決定稿?を転載致します)



「Designを二元化せよ」




建築家の話は、一般には判りにくい。また、関心も持たれにくい。
「お家に帰れば〜積水ハウス〜」なんて言ってくれて初めて、「あ、自分のことだ」と気がつく訳かもしれない。さすがにハウス・メーカーは苦労を積んでいる。
じゃあ、「こんなに私の住まいに夢を持たせてくれて〜、建築家のみなさ〜ん、ありがとう」なんていうCMを流したらどうだろう。
でももう、ちょっと手遅れの観もあるが。何せ,それをやるなら10年位続けていて初めて、尤もらしくなるのだろうから。ただでさえテレビなどでは「建築家」という言葉さえ避け、「匠(たくみ)」などと言っている始末だ。


ともかくも、ここでは「建築家<―>顧客」という一般に思い込まれた視点を越えて、「建築家<―>市民」という展開を見せたい建築家たちの思いがある。それも、「都市環境」や「まちづくり」という意識を包含してくると、さらに「行政<―>建築家<―>市民」という枠組みが意識されてくる。


建築家に何が出来るのかは、常に職能団体としての最大の課題だったし、今も変わらない。そこには個人(施主)を相手にしていながら(一応、公共建築などを除くが、それが「組織を相手にしているから」と思うからで、その実、公共建築でも、使うのは個人。組織でも、合意調整の上としても最終決定者は個人、という事を建築家は知っている上として)社会性を問題とし、社会性の問題でありながら、個人的な創造環境の問題でもあるという、どこに焦点を置いているのかわからないような複雑な問題がある。


実際、地域会の集まりで、ホーム・ページ制作のために呼んだ若いウエブ制作者によると、「教える事はいっぱいあるのに、5年、10年後のために、若手(建築家やファン)に言うべき事が見えない。この地域会の味出しはどうするのか。それが見えないとホーム・ページの色づけが出来ない」という反応を得た。
これに答えるように、建築家同士が集まると、以下のような話題になり、また一般から遊離する…。上での混乱の蒸し返しである。ここからは個人の発言の解釈引用だが、了解を得ていないので個人名の公表は避ける。


「これからの建築家は、行政のパートナーとして、また第三者として民意を行政に伝えるパートナーとしての存在意味があろう」(日本建築家協会は、作家的な個人の集まりではなく、行政と民間との間に立つ「調停者」としての役割に目覚めているとする、つまり「公益化」が前面に押し出されてきたために、「コミュニティ・アーキテクト」という「アドバイス機構」へ向けての立場が強調されるようになった、最近の立場を言い換えたもの)というのである。これで建築家協会の使命が見えてくるのでは、という紹介だ。


これに対して、この建築家協会の動きは「システム的に入会しやすいなどの配慮は働かせているが、夢を考えていない。対症療法で終っている」という意見が出た。そこには、建築家に求められる本質的な問題には対応していないという考えがある。その理由というのが次の意見だ。
「行政はカタチを創らない。『まとまり』を創る。建築家はカタチを通して『まとめ』をやってきた。カタチを創らない事だけに加担していて建築家と言えるのか。
そこには「調停者としての立場」はあっても、「結局、創って見せる責任を取る立場」こそ設計者の本領であるにも関わらず、そこへの視野が欠けている。建築家の定義をはっきりしないで、見返りがない若者を引っ張る力があるのか。
真に建築家の考えがまとまらない以上、下手をすると、行政に対しても、市民に対してもミスリードする恐れもある。その責任を取れるのか。
日本の都市計画系審議会などの委員は学術経験者が多く、意見は言うが具体化は出来ない。それは実務者(建築家)がやっている。それなのに実務者は下請化しやすい。
住民が納得する事が大切だが、「人を向き合わせる何か」(力となる論理、テーマ、施策)が無いとそれが難しく、審議会をいくらやっても表面的で駄目。とは言え、建築家にその『まとめ』が出来るのか」。


他方で、「カタチを通してまとめをやってきた」建築家の方も、「巨匠」に代表されるイメージが残存し、それが「弟子」という階級意識をもたらすためにか、伝えるべき感性が伝えにくく若者が入って来にくい、という現実問題を抱えているのも事実だ。


ここには、このたび学会発表することになった「Designを二元化せよ」との論旨に合うようなそれぞれの主張と欠点が、具体的に浮き彫りにされている。個人と社会、マネー資本主義と地域化社会主義、政治・経済と文化、理性と感性、芸術と科学技術、世界と日本の社会構造の差、などなどを総観して、「日本のこれからと、建築を含むデザインの可能性と役割」を捜すものである。これらはすべて「二元化状態」である、とするところから出発する。


これがちょうど、この19日に行う、川端康雄日本女子大教授と私の対談テーマ「ウイリアム・モリスと現代」の検証目標でもある。+
「Designを二元化せよ」は、来る11月11、12、13日に東京大学で行われる「Design シンポジウム2014」で発表するが、その後で、論旨をここに掲載することにする。



(+「ウイリアム・モリスと現代」トークのご案内は、本ブログ今年5月25日を参照ください)