ニュー世代と情緒

【日記】

年の終わりに何か総ざらいをしている自分を感じている。


過日、JIDAフォーラム「デザイン思考のオモイ」という集まりで話した takram design engineering の渡邊康太郎君が面白かった。
息子と同世代の29才。この世代に期待することは大きい。
慶応の藤沢キャンパスの出で、メンタルはエンジニアだろうが広域デザインの視野をよく持っている。
横断領域からの言及を実証する意味で、それぞれの分野の言い分での「ある事象」を文章化してスライドで見せ、実は「この事象やモノ」は何なのか、と会場の参加者を全員立たせてわかった者から座らせるという荒業をやってのけた。


こういう世代が育ってくると、いろいろのことを「任せてもよいか」という気持ちになる。分野や境界にまったくとらわれていない。自分に得意でないことは得意なやつとコラボする。ヴェンチャー・ビジネスと同じ位置に立っていると言えよう。
そこで帰りに考えた。彼らに出来なくて僕が、あるいは我々がやってきたこと、さらに僕にできることはなんなのかと。


それは情緒への読み込み深さの差だろう、と思われた。
人が生きることの分別は、若ければすべてが未経験で、デジタル・データに則って判別し行動もできよう。未来予測と判断、そしてそこからの行動は、上記の渡邊君などには必要不可欠な行動指針になっているのだろう。それはそれでいい。若者の特権だ。
しかし貰った本を読んでみても、そこには驚くほど情緒はない。アナログを扱うのに、デジタルな判断しか使っていない。人間って本来アナログの塊りなんじゃないのかという気持ちは、我々には消し去れない。そこには大いなる無駄もあろう。
それを端的に言ってしまえば「アナログの無駄こそ文化」であり、その実践であろうということだ。(以下に補注)


はやりのプロジェクト・マッピングなども、画像の選択、展開の構成などはあっても、ベースになるのはどんどん精度の上がるデジタル画像やその組立。もちろん手書きイラストも利用も含め。この程度ではデジタル画像の遊びとしか思われない。モダン・アートも我々を感動させることはなかったから、同じ立ち位置なのだろうが。そこまで来るなら、アナログ的と言えるのはやはり映画として確立された分野となろう。



【補注】 ちなみにこのタイトルは本年5月31日の朝日新聞「耕論」で取り上げられていた。主題は多少ずれるが、それを受けての感想は、6月1日当ブログ:「日本男性は、世界でも珍しいほど、音楽や美術、演劇など「文化」に触れません」を参照されたし。







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