「則」の法則

越えられない「則」(のり=おきて、模範の意味)   ●印以下、27日修正追記



美術家はもちろん、多くのデザイナーやある種の建築家などは、自分が経験から組み立てた「則」が越えられない。これは自分も含めての教訓である。
このことは、過日の専門委員の集まりの場で実感から言ったことだ。
と、どうなるか?
経験則に合った人たちだけの場になっていくのだ。
何をやっても自由だが、これぞまさしく自分がやってきたこと、自分をそこへ導いた偏愛を越えられない。
今の美術・デザイン界(そういうものがあるとして)は、この状況の正直な現れの場であろう。
近現代の作家はあらゆることに手を染めてきたが、視覚などの五感がたどり着くのは結局、見えるモノ(形、色、質感/素材、質量、機能)とそれが支える空間(空間量、方向性、配置、雨風光/地勢などの自然、音響、動線などの機能、体感)でしかない。●その視聴覚・体感からの表現を推し進めるのは、思考していると思っていても、いわば「類推思考」、あるいは「偏った想い」であって、人間の社会を変えるような本当の思考ではない。
創造のルールが解体したからと言って、勝手な表現行為をしてみても、結局、自分を縛り付ける「則」を越えられない。
感覚としての自分(論理思考ではなく)を創ったのは過去の環境とその蓄積だ。その発意と行為的な表現行動は、それが個人に留まれば許されるのだが・・・。
こうして、時代の変化が求める本質的な創造への思考が求められても、自分の「則」に留まり、そこから主張し、人に求め、宣伝することになる。
この分野が読めないメディアはそれを鵜呑みにする。未来に不安を持つ学生は、表に出会たものとして、とりあえずそれに従う。
このことも今度の本の、「意識を求める伏線」となっている。


(ここで言いたいことは、これですべて。 追記したくなれば後述する)