行きついた実感

最近、心に決めたことがある。

残された時間の使い方と、何に使うかの覚悟だ。

 

若いと思っていても、いつ何があるか判らない。自分の身に起ることだけではなく、このコロナ・ウイルスが与えたパニックも影響を与えている。外側の世界も、この身に何を与えるか判らない時代の実感を与えてくれた。

残された時間を最大、有効に使うには、例えばもう海外旅行を止めようということがある。この3月中旬にカンボジアに行って見ようと企画したが、中止した。

来年にでもと思っていたが、最近の他の旅行を反省してみると、グループ・ツアーで感動したことはない。最新、多面の映像情報が与える印象でほぼクリア―されてしまっていて、それ以上の体験は、その地に居座って数週間でも生活して見なければ判らないと思えてきた。と言うのも、ミラノに居た10年余りを想い、その位の生活があってこそ感じた異国の風物への実体験があるからだ。もう外国旅行に行かなくてもいい。体力的にも急激に歩行が苦しくなってきたし、物忘れも多い。こんな状態で気楽に外国に行き、楽しめるとは思えない。

 

では、残された時間は何に使うのか。

自分が考えてきて、やってきたことの集大成が残っているということだ。片付けは周辺からと思ってきたが、やりたいこと、表現したいことの核芯が見えてきた以上、本丸の整理が重要だ。

自己弁護にもなるが、芸術、文化、デザインがミックスし、大混乱に陥っているのが現代の実状だ。伝統的な視点、論点での「芸術は終わった」とは、常々感じてきたし、考えてきたことだが、では次の時代に何を準備するのか。そもそも自分の人生行路は、試行錯誤しつつも、新しい時代の芸術。文化の底流を創ることではなかったのか。今、そのことを実感している。

残された仕事は、これまでのパターンでの表現ではなく、一人の創造家による人生が示す、「生き方そのものが近未来の創造家の先行例」だということを示すことだ、との思いを強くしている。そのためには、自分の創造行為に関わった多様な業務の残り物を整理、最低限の保存に努めることだと思う。捨てられない体質を越えて、どこまでやれるか、これからの勝負だろう。自分のやってきたことが、社会的にそれなりの視線と位置を獲得するのは、20~30年は掛かると感じられ、もう自分はいないが、やれるところとまでやるしかない。