「メサイア」を聴く

サントリー・ホールに荘厳な合唱が響き渡る。           26日:追記●〜●


〜死がひとりの人によって来たのだから、
  死者の復活もまた
  ひとりの人によって来る


何のことか、と思われるだろうが、これはヘンデルのオラトリオ「メサイア」で歌われる、キリストの復活を讃える一節だ。
今日はクリスマス・イブ。 昨夜、バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏会でこれを聴いた。
この句は41節・合唱で、「コリントの信徒への手紙」 第15章21〜22節からの引用とのこと。  次に、こう続く。


〜アダムにあってすべてが死ぬように、
  キリストにあって
  すべてが生かされる。


キリストの犠牲とその教えへの弾圧に人々の後悔が始まり、そこからキリストの言葉が広まり、復活が始まった。
こうしてキリスト教への弾圧が打ち砕かれた。
そして歌われたのが、有名な「ハレルヤ・コーラス」である。 その後に、上述の句の合唱が歌われるのだ。
オラトリオとは宗教的な題材が、この「メサイア」の例でみれば、合唱〜アリア〜合唱〜アリアで繋がっていくようなソロ曲・合唱曲の組み合わせによる演奏会のことで、「オペラ」とは違うものとして生まれた。 「メサイア」は救世主を意味する英語だ (歌詞もすべて英語。ヘンデルは25歳の時にイギリスにわたり帰化している)。
最終場面は、トランペットが高らかに鳴り響き、歌い手と共に永遠の命を歌いあげ、死に対する勝利が宣言される。
〜おお、死よ、お前の棘はどこにあるのか?
  おお、墓よ、お前の勝利はどこにあるのか?
  死の棘は罪であり、
  罪の力は律法である。     (44節・アルト/テノール二重唱:同上コリントの手紙Ⅰ 第15章55〜56節)(三澤寿喜:訳)


最後に合唱が神への感謝を捧げる「アーメン・コーラス」(47節)でフィナーレとなる。




こう書くと、やけにこの辺の事情を知っているかのように受け取られるかもしれないが、実は解説書を読み砕いているのだ(室田尚子氏と指揮者の鈴木雅明氏の解説)。
クリスチャンではないので、と言っていいかどうか、どうも数節聴いただけで眼前に暗雲が垂れ込めてくるような気になる。 誰にもかかる死を、真剣に思わずにはいられない。 決まった死に対して、現代科学でもどうしようもないと解っている我々と比べ、本気で死に対して打ち勝つと思っていただろう当時の信仰心の前では負けてしまう。
 ヘンデルの曲やキリスト教が嫌いというのではない。 それは、必要以上に私の心に死生感を増幅させる状況を生むからだ。
まず、キリスト教が生み出した何世紀にもわたる精神的な縛りと、そこに生み出された生と死の深い溝、そこから生じた歓喜と殺戮の匂いを想定し始めると、何も実経験がないのに身もだえしそうになるから。 これには、在欧経験や、これまで読んだ小説や映画が教えることもあるだろう。
●思い出しついでに一つ記せば、例えば中学時代か、バルザックの短編「海辺の悲劇、他3編」(岩波文庫)の中にあった、衣裳室に逃げ込んだ男との不倫がばれているのに、夫に純潔を神に誓わせられて十字架を握って男が餓死するまで寝室から出られなかった女の悲劇を読んで、一晩中寝られなかった想い出とか…。●
更に、ヘンデルが生きていた1685年から1759年を、西洋史を勉強したからってほとんど何も知らないことへのいらだち、とでも言おうか。 知らなきゃ知らないでいいとも思うが、せっかく「メサイア」を聴いていても、それでは本当にヘンデルを、それを評価した時代の人々を理解することにならない。 知れば、その日、そこにある生と死を実感するだろう。 「メサイア」を全曲、ちゃんと聴いたのは昨日が初めて。 ヘンデルには関心が無かった。


印象としては演奏は満足出来、いい経験をしたが、「メサイア」を演奏会で聴くのは素人にはもう、これ一回でいい。
英語とはいえ歌詞の意味はまったく聞き取れない。 判ってはいるが、そもそも音楽にしている以上言葉で理解するようなことなのか、という気にもなる。 英語(と言っても古いものらしいが)で歌われていたのもびっくりだが、ヘンデルがほとんどイギリスで生活していたのも知らなかった。 47節もあるキリストの物語は、旧約、新約の両聖書からかなり正確にテキストを取っているらしく、チャールズ・ジェネンズの英訳。 20分の休みを入れても2時間半以上とは膨大な物語。ヘンデルはこれを3週間で作曲してしまったとのことだが、何としても長すぎる (何度も聴いている人や指揮者の解説では、各節が明解でドラマチック。 さすがはオペラを手掛けたヘンデルだけのことはある、とのことだが)。 素人には、メロディが鮮明で覚えやすいような曲が所々にでもあれば、また違ったかもしれない。 どうも各節が全体に「祝詞(のりと)」のようで、のっぺり感じてしまうのだ。  もう一つ、ある。 せっかく「舞台」でやっているのに、これだけの時間を掛けてもソリストの出入り以外、視覚的に何も変わらないというのはどうももったいない、と不明感の言い訳をしたくなる。 やはり美術系の考えか。
でも、なんと、多くの聴衆が入り口で配られた日本語対訳つきのテキストを薄明りのなかでひも解いているではないか! 2000席がほぼ満席にもびっくり。 どうやら信仰の深いクリスチャンや、音大の卒業生・学生がメインではないかと思われた。 先日のダンス・パーティもそうだが(12/13記)、ここにも我々の知らない狂信者や熱愛者がたくさんいることを確認。 当然(?)、美術や建築の知人とは一人も会わない(笑)。
鈴木雅明氏は1990年に演奏組織「バッハ・コレギウム・ジャパン」を創設した著名な指揮者(東京藝大名誉教授)。 世界中で演奏し録音し、たくさん受賞している。 この後はホテル・オークラに移ってのクリスマス・パーティで洗礼感を洗い流した。









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