tutt’ e’ passato!

【日記』



Tutt'e' passato! ―あヽ、みんな過ぎ去ってしまった―




イタリア民謡「サンタルチア」に出てくる歌詞の一部である。
いや、大変失礼。「カタリ、カタリ」だった。
「すべては過ぎ去ってしまった!」という慨嘆が歌われている。(1:最後に補足)

これを歌ったのは建築家東直彦氏で、去年の「中野*トークバトル」の原初仕掛け人。これ以来、親交が深まっている。(*日本建築家協会中野地域会)
彼が出演するガラコンサートに招待されて聴いたのだ。


カンツォーネに限らず、イタリア・オペラの名旋律をダイナミックな美声で歌われると、「あヽ、イタリア!」と感涙に浸ってしまう。昨夜はそれほどダイナミックな歌い手は多くなかったが、それでも十分楽しめた。それだけに時間に追われている日々が、何だろう、そして過ぎさったイタリア生活が何だったのだろうと思わずにいられなかった。(2)


「感傷は人生の休日である」と言ったのは三木清だった。実に名言だと思う。
イタリア人は、昨夜僕が感じたこんな感傷に浸って日を過ごしているのだから国が駄目になってしまうんだ、という言い方もあろうが、それをうまくまるめているように聴こえる。
「人生の休日」を謳歌しないなんて手はないんじゃないか、というわけだ。もっとも失恋では休日にならないが。
あえて言おう。日本で暮らしていると、「感傷」があたかも一人の人生にとって悪であるかのような心理的受身として返ってくるのだ。そして、それだからこそ日本人らしいのだ。美しい「情念」なんて仕事の邪魔だ!?
一息つこうと思っているその時間帯にも、稼いでいないとどんどんやられてしまう。こうしていないと、こうなってしまう、という規制がどんどん締め付けてくる。 あ、で思い出した。例えば今年度中に建築士定期講習を終っていないといけない、とか。それに予備校(講習と試験の実施校)に1万円以上払わなければならないとか。


横道に反れたが、会場は渋谷区文化総合センター大和田さくらホールというところ。駅の近くにこんないいところがあった。600人は入りそうな大ホールの1階がほぼ8割の入り。
感心したのは、一般のと言おうか、セミプロ級でも、歌唱力がかなり高くなっていること、演奏もうまい。招待はされたのだが、カネを払っても十分聴くに堪えるほどだ。歌手総勢29人が入れ替わり立ち代り。もちろん、好きで歌っているだけの人も多そうだし、オケも女子学生だけを集めた促成集団のようにも見える。それらの人たちが、主にイタオペのアリアで2時間を楽しませてくれたのだ。日本の演歌ではない。何を言っているのか判らないイタリア語で大真面目に、いわばかの国の演歌を歌っている。聴くほうも乗っていて、うまいと思った歌手には「ブラボー」が飛ぶ。女性たちのドレスアップ姿も様になっている。一瞬、宝塚のイタオペ・コピー版かと思えるほど。
地球の裏側で、自国の文化が大真面目で取り込まれ市民のものになっている!
和風総本家ではないが、「日本っていい国だなぁ」
記憶では2,30年前、このようなコンサートに誘われて、がっかりし、嫌な気持になったことがあった。学芸会じゃないんだよ、と。組織や内容の比較は出来ないが、隔世の感がある。


問題はここからだ。この人たちはどうやって生きているのだろう?

(時間がなく出来れば後述)



(1) 原題はCore'ngratoで、下品に訳せば「つれない女め!」というような激越した感情がこもっている。「すべては過ぎ去ってしまった!」というのは、捨てられた男の嘆きを歌ったもので、この部分の音楽そのものには、あまりにも生々しい歌詞全体の持つ感覚とは別に、永遠に見放された愛への深い哀惜を感じさせる。作曲はCordiferro Cardillo カタリは珍しいが女の名前だろう。


(2) イタリアのことはあちこちに書いてきた。特に歌のことについては、次のブログも参照頂ければ。
2009/11/22 「イタリアと日本:第5講と第6講」
他にどこかに、ノスタルジーをそそる歌手としてイヴァ・ザニキのことを書いた記憶があるが、見つけられなかった。
思い出すミラノ生活事情についての一例は:
2012/4/27 「ミラノ・サローネのこと」