佐野邦雄さんのこと

後日:2017/11/08 タイトル変更。実はこの後、確か2015年(要確)に佐野さんは突然、逝去された。驚きだが、後からすると貴重な記録になっていると思うので、佐野さんの名をタイトルに変更した。




【論】


行動すればいいのか? 最近の建築界の、特に若手の動向にも関わる問題について
―友人の「初めての『建築デザイン』考」を読んで考えたこと―


「初めての『建築デザイン』考」というのは新鮮に聞こえる。
でも、僕のことではない。インダストリアル・デザインをやってきた旧知の仲間、佐野邦雄さんがこの「看板」を下げて、僕にどう思うかと問うてきたのだ。なかなか重厚な上に長い(A4−8P)。やっと読ませて貰っていざ返事をとなったら、簡単にはまとまらない。彼の博識、多面性にもよる。結局、A4で1ページ半になった。
ここで考えに出てきたのが、「行動すればいいのか?」という自分なりの問いかけだった。


こうして読後評としてみると、この自分の文章は特に出版を予定したわけではないし、佐野さんの問いかけも、このまま埋もれさせるのはもったいない、と勝手ながら思えてきた。そこでこのブログで取上げることにして相談したところ、彼の了解も取り付けたといういきさつである。
本来なら佐野文から掲載すべきなのだが、前述の通り長いこともあって、申し訳ないが、ここは読後評を「まとめ扱い」ということにして先に出させて頂いた。そこで「行動すればいいのか?」の問いかけが来る。
勿論、順序どおり、「初めての・・・考」の印象的な冒頭の「風雨の中、素足にサンダルで立ちつくした若者へ」から入って頂くこともお勧めする。
長くなるが、読んで頂ければ幸いである。





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「初めての『建築デザイン』考」への感想 (佐野邦雄さんへ)           20140422                   大倉冨美雄



佐野さんのハイレベルな思考になると、簡単には答えられなくなりますね。
互いに解っていることが多くなる一方、鈴木博之さんの発言引用で紹介されているように、「現代においては、固定したデザイン理論、造型論は存在しえない」からでしょうか。
遠慮がちに、初めての「建築デザイン」考だと言っていますが、それだけ心配なのか、僕に意見を求めてくれたのはうれしいことです。僕自身も横滑り組というか、「後気づき組」とでも言うのか、正道路線を歩んできた者とは言いがたく、建築家としての正確な意見の持ち主かどうかという気もしますが、最近は建築家協会地域会などのトークイベントにも呼ばれていますから、少しは役に立つこともあるでしょう。


その視点から見ても、「佐野建築デザイン考」は少しもおかしくありません。むしろ視野の大きさと時代の読みの深さではなかなか感心しました。
特に鈴木博之さんにお願いしたという、「この国の外発性と内発性の相克(を如実に現わす建築の世界)」に見る日本の問題は、建築に留まらず、デザインから文化一般にも関わる大きな問題で、大切な問題提起でしょう。それが問題である由縁は、現在でも結論がついていないということで、「今、日本にはヴィジョンがない」(安藤忠雄)、「作り方が隘路になって真剣さに欠ける」(栄久庵憲司)、「結果として洋才だけ輸入したことで良かった」(鈴木博之)、「ある種の衰退の中で日本化が進行」(磯崎新)、「この国は近代化のある到達点において個人主義的な志向を強めた」(御厨貴)など、関連発言でいろいろ言っている状態ですね。そういう中では「経済で得られるものが限界であることは皆知っている」もどかしさにありながら、具体的な方法論や戦略が出ていない訳です。


そこで、佐野さんの言う「能動的体質への転換」ということが「歴史の節目」(ジョン・ダワー)の中で意識されてくるということでしょう。
そこから「建築を考えることは社会を考えること」(石山修武)、その石山氏を、貴君の言う「『人間やってる』石山さん、それ自体がヴィジョン」とする見立て、もしくは「『きずな』を作るのが非常にうまい人」(山口勝弘)という言い方で出てきた「きずな」、さらには、「(個人の能力を)単に『個』の中にとどめずに、それを『つなぐ』こと」(御厨)とした「つなぐ」などによって、「能動体質への転換」が不可欠であるイメージに進んでいきます。
実際、若い建築家の間でも最近、話題になってきたのは「行動するタイプ」、いわゆるコミュニティ・アーキテクトたちです。


ただ、石山修武を見て分かるように、天性の個性の持ち主や、体質的に運動選手的な性格に恵まれていないと、実際には建築家にとっては、かなり、というより大変難しい身の振り方であるように思われるのです。
ちょうどここで、過日の話し手だった犬養智子さんが、別れ際の短い挨拶をした際の僕の質問に、「私は行動するのは大嫌い、考えるのは大好きです」と言っておられたことが引用できます。
「能動的体質への転換」とは言っても適性体質を要するのです。そこに自分を含め、多くの建築家の悩みもあると思います。そのための戦略は生まれていないのです。
「まず動け」式のセオリーは若手に判りやすく共感を呼びやすいのですが、「実際の建築設計のマインド」というものは、そんなに動態的だけで済むものではありません。沈思黙考や長い経験の蓄積、あるいは空間造型センスが無視できません。行動は行動でいいのですが、建築設計そのものであるとは思えないのです。実際、行動して造ることになる際には、ルビコン河を渡ることになり、戸惑い、あるいは躓く若手も少なからず出てくると予感しています。どこかで両者の融合合体が図られれば、と願ってはいますが、まだルールはないと見ています。内発性と外発性の相克の現実と現場ということでしょうか。
今、それを承知して、はっきり言えることは「自分の立ち位置を決めること」でしょう。もちろん、全く新しい方法での「位置決め」の時代であることには代わりありませんが。
確かに多くのことは「バウハウスで終るのもいい」ことになるでしょうが。


僕の場合、日本人のメンタルや歴史から、この国が組織化(グローバル化全体主義化という傾向も含む)に向いた社会であるとし、ここからの職能を論ずる展開に傾いています。
「能動的体質」については、「言葉の伝達による行為をそれに含む」として行動している部分と、上記の「行動と設計マインドを繋げる」試行を観察する背景として、「組織化社会(1割の富裕層と9割の貧困者層への格差化が出来上がった社会を想定)」での職能を何とかしたいという思いや観察から方法論を見つけたいとして行動している、と思っています。
前述のように、最近ある「トークバトル」を行いました。後でその記録の「縮刷版」をお見せできると思います。





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初めての「建築デザイン」考               佐野邦雄 (インダストリアルデザイナー)


                          
風雨の中、素足にサンダルで立ちつくした若者へ    


 2014年3月30日、早大・大熊講堂前で強い風雨の中、予約なしの数百人の若者の行列に混じって1時間立ちつくした。若者たちは建築系に違いない。入口には「石山修武−−これからのこと」と書かれている。私の前の若者は素足にサンダルで冷たい雨に足が赤くなっている。私は「この若者たちは、今どんなことを考えているのだろうか。多分『これから』に自分のこれからを重ねているに違いない。果してどんな可能性があるのだろうか。」を考えた。1時間経つと大きなスクリーンのある地下の小講堂へ案内され、それからまた1時間ほどしてキャンセル分の55人が上の大講堂2階へ案内された。大講堂は外観とは異なり意外なほど優しさのある空間でほっとした。3時間にわたり語られた内容は成熟と対の閉塞感を抜け出す示唆に富み、実際に何人かの若者にとっては動機となり得たのではと思う。以下に当日のメモを元に個人的な思い込みを記すが、なにせ建築は初めてのことで、若干の誤差と頓珍漢ぶりはご容赦いただきたい。



石山修武氏 建築家 早大創造理工学部教授 退官記念シンポジウムにて

●第1部 安藤忠雄氏 建築家 東大特別栄誉教授 レクチャー
 進行は難波和彦氏 建築家 東大名誉教授。初めに中川武氏 建築史家 早大創造理工学部教授が主催者挨拶として今まで共に進めてきた東大と早大の設計製図の授業、早大の存在意義、その中の石山氏の働きについて包括的に説明した。
 次いで「本来なら鈴木博之先生 建築史家 元東大教授 青山学院大学教授 博物館明治村館長 安藤氏を東大へ推挙 本年2月逝去 がここにいるはず」と言いながら安藤氏が画像を交えて始めた。東北の被災地で出会った子供たちが自分の将来を決めているのに「今、日本にはビジョンがない」と少し声を高めた。自分は「建築をやりたい」という強い気持ちで歩んできたこと。中庭のある住吉の家は自然との関わりをテーマにしたが、「住み手自身が考えること」や「寒かったらトイレは朝まで我慢して」と要求したりもしたと。「設計はその都度、必ず違う方法で臨む」として、京都・高瀬川に接した建物では川を取り込むプランを。危険だから柵をといわれたが通したこと。六甲の傾斜60度の集合住宅とその周辺の計画と裏話。時間をかけて「建築に留まらず拡大すべき」、そして「建築の職能を広げよう」と。92年のベニス。最近の中国では中国でしか出来ないスケールを実現。「こんなもの中国では出来ない」と言われたら、「ならば中国でやってみよう」と。終りに「これからはアジアの人と一体になってやっていく」と結んだが、難波氏は「これは既にビジョンだ」と加えた。


●第2部−1 シンポジウム  
 まず台北の超高層を設計した李祖原氏 建築家。「西洋は分析的、中国は全体的に俯瞰。そこから全体主義的な観点につながる」。しかし「私は歴史、自然、創作」で進め、全体主義的な考えを否定して「地域」に焦点を当てている。「地域の文明から人類の文明が出来る。地域建築は後ろ向きという人がいるが、そうではなく、もっともっと前を見ている」と。石山氏は「日本の将来は中国抜きでは考えられない。中国人は私が何を言っても絶対変わらない。この中国人の強固なアイデンティティーについて、これからの若い人はよく知っていないと大変なことになる」と忠告を添えた。
 
 次に「将来ヨーロッパの建築理論の中心になる人物」と石山氏が紹介したベルリン工科大学のヨルク・グライター氏 建築理論家。「最初、石山さんはラディ
カルな建築家だと言われた。その石山さんはニーチェと大きく関係している。ニーチェは「聖人であっても道化でありたい」と。石山さんも笑いながら真剣なことを、諧謔の中に本当のことを言う人だ。似ているもう一人は良寛さまでユーモアの人。遊んでいるうちに本気になっている」と。これからのこととして大学に「建築セオリーセンター」を計画していることを告げ、最後に、実現可能性のあることこそ「ビジョンと言える」と話した。
 関連して石山氏は「ワイマール・バウハウスにはグロピウスがやった墓所が残っているが、あれは明らかな表現主義だ。そのことはタブー視されているようなのでぜひ解き明かしたい−−これが最近の考えです。」と話した。
 
 次いで栄久庵憲司氏 日本デザイン機構会長 インダストリアルデザイナー 。「今日はテーマがいい。ポジティブで夢がある。これからの根底になるし楽天的で哲学的にも意味がある。今日は雨にもかかわらず「これから」を求めて皆さんは集まった。但し「これから」が、あっちこっち向いていては意味がない。方向づけが決まると「力」が出てくる。力がないと全く意味がない。そして、こんなに沢山いると逆に力になる。「これから」の意味は深い。自分の存在の意味を決めて欲しい。現在の存在の意味ではなく「これから」の自分自身の意味を。
 私はIDの初めをやった人間だが、「これからのID」を考える。原爆投下直後の広島は瀬戸内がキラキラしているだけで全く何もなかった。凄惨な「無」。人は死に建物は壊れ自動車は破壊され何ひとつ役に立たない。全くの無。「色即是空」には美しさがあるが、それとも全く違う。しかも、それは広島だけでなかった。私はなにか手に「有」を、「掴めるもの」が欲しい、何もないところに「有る」が欲しいと。西行は桜−−死ぬこととして桜を思ったのだろうが、私の場合は「有る」もの、私の色即是空の一つの表われとして。自分の存在は有るものと掴むことによって成り立つ。そこから「モノを作ろう」と60年続けてきた。
 モノは決していいものだけではない。しかし、作ることは永遠に変わらない。続けていると色々問題が起きる。モノの作り過ぎ、流行、量。日本で足りてもアフリカでは無し。今の経済成長の「ほころび」はどうすればいいのか。「正しいものを」。自然・環境としっかりと対峙して綿密に。工芸品は立派だ。大きな目標を持とう。昨今の日本はスローダウンして国力が下がっている。モノを作る人がしっかり対峙すべきだ。作り方が隘路になって真剣さを欠いている。
 かつて私はメタボリズム・グルーブとして建築と縁があった。建築・都市は「住み方」に対応した道具だが、果して今までのやり方だけだろうか。地球上に残された材料の量を思う。たとえば「動く」建築と「動かない」建築。安心・安堵感のある都市・建築を。「自然観」をしっかりと持つこと。水は森に繋がり地域と繋がる。そこにある生命と真に自分自身とを一体化する。私はモノ作りの「これから」を探りたい。多様な「これから」があるのではないか。

 山口勝弘氏 アーティスト「これからのこと」で最近の「ニュートン」誌が興味深かった。「宇宙とは何か」で、今まで始まりはビッグバン説だけだったが、最近「パラレル宇宙」論が出た。ビッグバン説は変わらないが、人間が変わるしかない。三陸津波後、日本人は「きずな」を大切にしたが、石山さんは「きずな」を作るのが非常にうまい人。私は11月〜12月に「水の研究」の個展をやるが、ぜひ見ていただきたい。渦に巻き込まれた人間です。


●第2部–2 今まで関わった複数の友人 
松崎町 森秀己氏                             
 伊豆長八美術館の計画を立てている時に、石山さんがどこからか聞きつけてバンと出した。議会は猛反対だったが気に入った町長が断固として押し切った。それをきっかけに町は非常に変わり、今でも年間4〜5万人が訪れる。
気仙沼市 臼井賢志氏                              
 「石山イズム」の強烈なところに若手は一挙にファンに。海岸の整理。「海の道」岸壁に並木、ベンチ、回廊など一つの物語。リアスアーク美術館設計は、人間社会の根源にあるものをと。建物は造船技術で鋼鉄の曲げ加工を使って。物語性と意外性。気仙沼には市民の信仰と憩いの安波山がある。祭には安藤・石山両氏が来る。新たな自由な世界に。
唐桑町元町長 佐藤和則氏                          
 「一人は皆のために皆は一人のために」と、街づくりの心を石山さんから教わった。人気の「唐桑七福神」は大漁旗と竹で作る。若い人が元気を取り戻してくれた。イベントでなく日常へ。自分たちで(株)街づくりカンパニーを作った。その意気は子供たちにも伝わった。                          
一ノ関「ベイシー」菅原正二氏                          
 「ジャズ喫茶」はアメリカに一軒もない。「日本一の音」で海外からもトッププレイヤーが聴きにくる。石山さんからはケンカの仕方を教わって役に立っている。
安西直紀氏 慶大出 福沢諭吉の研究会代表                       
 政治家志望だが修武さんは「都知事」くらいがいいと。道をこれから作る。
世田谷区区長 保坂展人氏                           
 国会議員をしていたがヒロシマハウスや悠久の時間を費やした「世田谷の家」は知っていた。そして「世田谷式生活学校」を14回やって頂いた。私は「福島第一原発事故の直後に、社会を変えていくのは地域から」と決めた。石山さんは巧みなアイデアを出す人で「スダレをソーラーにしたらどうか。」と言ったら暫くすると試作品を。自立電源。世田谷ソーラー財団を設立する。保育園の提案も頂いた。石山さんは「奇想天外、正義感溢れる人だ」と結んだ。                          
石山氏は「私はこれから地元の世田谷をやっていかなくてはならない。問題もあって面白い。」と。次いで「ヒロシマハウス」は自分の中の最高傑作と思う。近い所より遠い所の方がうまく行くという変な人生だが−−−と平岡氏を紹介。
広島市市長 平岡敬氏                            
 平和は訴えているだけではダメで、作り出していくものだ。以前「アジア・オリンピック」をやったが、何でも一過性ではダメだ。日本は明治期に脱亜入欧をやったが戦後を経て今日もまた脱亜をやっている。カンボジアプノンペンヒロシマハウスでは市民を連れてレンガ積みに10年通った。「過程重視からすると建物は完成しない方がいいのかも」と言ったこともある。         
これから「核の時代」だ。まず、今世界各国に存在する核被害を食い止めて元に戻すことから。「核エネルギーと人間の問題」は中々難しいが「人間が変わらなくてはいけない」ことも考えるべきだ。


●終りの挨拶 進行役 難波和彦氏 早稲田バウハウス佐賀を共にやったが、設計教育の仕方を全て石山先生から教わった気がする。「設計教育は社会教育なんだ」「建築を考えることが社会を考えること」になる。石山先生は社会性をもった建築家でありたい、ありつつある−−だが「アーティスト」でもある。著書「アニミズム周辺紀行」の文章は文学的だしスケッチもある。鈴木博之先生は石山さんを「あの人は詩人なんだから」と言っておられた。ヒューマニスト。辛辣な嫌みを言う人だが(私も少し傷ついたが)。それはまた同時にご自分も受容する人だと。それが今日、完成した日ではないか」と結んだ。

風雨の中、素足にサンダルで立ちつくした若者は、果して何を感じただろうか。



◎個人的感想など        (注:以下、敬称を一部「さん」づけに変更します。)     

                            
●「人間やってる」石山さん、それ自体がビジョン             
 たまたま日本デザイン機構は3:11から「『今』の共有」をテーマにトークサロンを7回続けてきた。石山修武さんの「鎮魂−−見えてきた今」から始めて、大宅映子さん「今ビジョンを考える−−なぜ明快なビジョンがでないのか」、向井周太郎さん「今、デザインの原点から再考する−−日本に真の意味のデザインは定着したか」、柏木博さん「今デザインを再考するための視点−−失敗を素直に認め、デザインの新たな視点を探る」、鈴木博之さん「都市の文化化にこそ、未来がある−−建築遺産の保存・復原の「なぜ」を徹底理解しよう」、小泉和子さん「知恵のエネルギー、知恵のデザイン−−文明度は高くても文化度が低い生活にならないようにするには」、犬養智子さん「今日を楽しむ美しいモノを創る イヤなモノはイヤ 自由が基本!−−デザインに市民参加」である。          
 夫々の方が「今」の根っ子を語ったが、もちろん「今」は、あるべき「次」も包含している。同時に1000年に一度の津波を受け、原発事故が発生したその時、人びとは一体何を考えたのか−−−という未来からの問いへの記録でもある。
 
 安藤さんのレクチャー後に難波氏が「これは既にビジョンだ」と言ったように、また、石山さんの「今まで関わった複数の友人」による構成それ自体が既に「これから」でもあることを読みとった若者は多いと思う。建築のパラダイムが見直され、大きな時代の曲がり角に自分が立ち会っていること、時代のテーマを自分なりに抽出する能力が要求されていること、着地点は建築物だとしても、そのプロセスでの建築家(この名前自体が問題だが)の主導的、あるいはファシリティー役としての働きの中に、従来からは「逸脱」した新しい働きが可能なことを、すでに先行して体現している石山さんから強く感じたことだろう。

 難波氏が言われたように「建築を考えることは社会を考えること」なのだ。敷衍すれば、「建築を通して、どういう社会を構築するか」も有りではないか。そのためには建築側からの活気あるビジョンの提示が前提だ。動機への参入だ。旧来の建築家は今日期待されている働きの一つの領域に過ぎず、「十年すれば保守化する」と同様に「専門」が固めてきた壁を内側から壊し、再考する時かもしれない。それが体質とは思いたくないが、一時期に比べて建築界全体が「待ち」に陥っているような気がする。「待ち」は、たちまち細分化され経済効率に支配され短期間に「創造的価値」が二義的な存在に陥ってしまう。
               
 今回語られた中で、私自身が惹かれたのは「人間が変わる」と「過程」への市民参加だ。私は以前、石山さんが世田谷美術館で個展をひらいた時『人間やってる』と記したことがある。石山さんはすぐれた動態視力を持ち、激動する社会に「建築」が介入することによって一歩踏み込める領域を鋭く抽出する。人が動き成果物が生き続ける。今回のシンポジウムを見ていて、経済の支配や、経済と一体化した科学・技術の高度化にのみ依拠する社会環境から、「素の人間の営みの可能性」を取り戻した瞬間に立ち合っているような気がした。石山さんは闘い続けるそのモデルだ。今まで参考にするモデルは外にあったのだが、聴衆の若者も自分自身にその可能性があることに感じたかもしれない。多様な建築家の誕生を期待したい。


● 3人の方々のこと
 残念なことに、会場におられなかった人がいる。鈴木博之さん、磯崎新さん、そして坂田明さんの3人だが、外野席にいる私が勝手に影響を受けてきた人たちだ。                   

            
鈴木博之さん
 鈴木さんは、90年代初めにインダストリアルデザイナーにメッセージを寄せたことがある。「情報化時代とよばれる現代は、あらゆるものがデザイン化されてゆく時代でもあるとも考えられる。ここに現代のデザインにとっての可能性と危険性がひそんでいる。デザインはわれわれの物質生活の全般に対して、目に見えるかたちの意味を与え、価値の序列をつくりだす力を秘めているものと意識されるようになる。
 デザイナーにとって、デザインを求められることこそ、自己の社会的使命にとって必要かくべからざる出発点である。しかしそこで自己に求められるデザインが、どのような価値を付与するものなのか、どのような欲望を引き出すためのものなのか、どのような差異を生み出そうとしているものなのかを、意識化しておくことは、これまで以上に重要な意味をもつ。現代においては、固定したデザイン理論、造形論は存在しえない。一つの同一のデザインが社会的文脈しだいで、善とも悪ともなりうるのである。それはデザインの可能性の拡大の結果であるが、同時にそれはデザイナーの責任の増大を意味している。」
          インダストリアルデザイン事典 JIDA編 鹿島出版会 1990 
 鈴木さんには先述のように昨年4月、トークサロンで話して頂いた。私は青山学院での事前の打合せで、この国の外発性と内発性の相克を如実に現わす建築の世界を語って欲しいといったが、「それは難しいと感じる」と言われた。「そのことは、私が東大助教授の頃、槙文彦さんが来て随分やりました」とのことだった。そして、今回はもっと具体的なことにしたいと。話が明治の「和魂洋才」に触れたとき「結果として洋才だけ導入したことで良かったのではないか。和魂=精神まで洋才しなくてよかったという考え方もできる。精神まで西洋化していたら日本は植民地になるところだった。」と言われた。国を案ずるその歴史的視点はさすがだ。それから3.11の当日は、「ここから歩いて自宅に向かったが途中下落合から行ったところでレストランが開いていたので、食事をしてビールを飲み、西武池袋線を過ぎて歩いて帰りました」と話された。私はその胆力にびっくりし、柔和な鈴木さんのもう一つの面を見た気がした。
 トークサロンの日、映像で紹介された新歌舞伎座の背部の空を映している無機質なビルについて、私が「建築家は空も設計するのですか」と聞くと鈴木さんは一瞬真顔になった。講演を聞いている間に、鈴木さんご自身が前から言われているオーセンティシティ(真純性)に思えてきたので会の終わりにそのことを口にした。多様化は個人を尊重するが故に拡散的だ。やはり一方に真純性のように本質への求心的志向があってのことではないかと思った。

                
磯崎 新さん 
 磯崎 新さんが当日39度の高熱で来られない、と伝えられると私のまわりから何人か退席したが、私は1989年に名古屋の世界デザイン会議・開会式の基調講演の朝に、腰痛のために参加不能と連絡を受けたことを思い出していた。係の一人だった私は東京のヘリコプター会社に電話したが、普通のグラウンドでは軟弱で着地がダメだと言われた。しかしその後の1995年、日本デザイン機構の設立シンポジウムでは「日本という内部と、世界という外部がどのような影響関係があったのか、その結果日本の形の形成にどういう関係を与えているのか」「外圧が内乱を誘発し、さらに外来文化が導入され、そしてある種の衰退の中で日本化が進行するというプロセスは歴史上反復的に発生しています。」と話された。その大きな把握はこの国の過去・現在・未来に通じる抜け難いテーマだと思う。(今考えてみると、先述の鈴木さんへの私の依頼内容も、そっくりそのままだ。)磯崎さんは中々姿を見せてくれないが、私たちとの距離がそのまま視野のスケールの差であるかにも思え、どこかで定位してくれる人がいて欲しいという気持ちも持続している。一方の石山さんは正に人間尺度(この言葉も早大の戸沼幸市教授から聞いたのだが)の、可能性の最大を示し続ける人だ。

                        
坂田明さん
 もう一人の「素」人間、坂田明さんのサックスが最後に流れたら、多分、若者たちはこらえきれなかったことと思う。人間の祖型そのものへの愛おしさだ。

 
ラッセルをする詩人−−建築家への期待  
 鈴木さんも言われたとのことだが、多くの建築家は詩人の資質を持ち、対極の現実との競り合いの中に身をおいて成立する職能にいる。詩人と彫刻家が食えない国は文化度が低いのだと思うが、その意味で建築家も片足を突っ込んでいる。若いころ憬れていた原広司さんから「建築家は大工と繋がる世界だが、インダストリアルデザイナーは総合めの世界。何か自分たちでやるなら手伝うよ」と言われたことがある。消費社会の中で働く若いデザイナーが、会社人ではなく社会人として自覚した瞬間、多くは矛盾の虜になる。
 私は30数年年前、環境デザインの先駆者ローレンス・ハルプリンのワークショップに参加して、初めて言葉だけではない民主主義を学んだ。それは人間の身体性を中心においたプログラムで都市再開発を推進する。経済で得られるものが限界であることは皆知っている。青いことを言うようだが基本はやはり身体と自由な精神だ。それ以外は殆ど解決し助長する方法が用意されている。現代人の脳は複雑化に向けて発達し、経済もそこと密着して発達している。しかし本来、人間はシンプルで素朴な生物でもあるのだ。その生物の自然界における最適解を建築家はいつも頭においていて欲しい。そして、明日を信じる最後の楽天家であって欲しいし、欲をいえばラッセル役として少し野生的な冒険者でもあって欲しい。


◎終りに                                  
●ビジョンの模索−−3.11から3年を経て  
・1986年(チェルノブイリの年)、私はデッサウ・バウハウス東ドイツ政府主催の「時計の今日と未来」をテーマのワークショップに参加した。その間、私はずっとグロピウスの脳の中にいるような気がした。余剰を一切排した知性が醸し出す空間だ。その知が機能主義と結びつきインターナショナルスタイルとなり、経済合理主義とともに20世紀の主流を形づくった。ある夜、工房で一人作品を並べて見ているとき心臓がギュッとなった。バウハウスで終るのもいいかなと、思いもよらぬ考えがよぎった。公共建造物にしろ、病院にしろ、家にしろ、私たちは殆ど建築家が設計した、いわば建築家の脳の中で生き、そして終るのだ。 
 その生の間、私たちは先人の多くの言葉の中で考える。辻邦生は「小説を書くとは、まだ形をとらない大切なものに、言葉によって形を与え、言葉の建物を建てること」と書いた。丹下建三は講演で「若い人に期待する」と言い、森有正は講演で「若い人には何も期待しない」と言ったという。戦後の全国総合開発計画を主導し阪神淡路大震災復興委員長を務めた下河辺 淳氏は、1995年、日本デザイン機構の講演で「21世紀を考える時は20世紀を一切忘れて考えるべき」と言われた。                            
 問題と化して表われる20世紀の負の遺産に汲々とせざるをえないのが現実だが、そこに加わった最大の難事は東日本の大震災だ。今後も含め、私たちは与件としてこの国が災害多発国であることを受容せざるを得ない。先述のトークサロンでの「ビジョン」では「お仕着せのビジョンではなく、一人ひとりが自覚・自立し自分のビジョンを持つこと」が結論だが、そこをベースに、これから期待されるビジョンは、従来とは異質の能動的な体質への転換を期するものになるのではないか。その核には「創造」がある。
 3.11は私たちに新しく3.11を起点とする尺度を与えた。3年を経て現状は報道の通り遅々としている。改めて発災直後の新聞から振り返ってみたい。私たちはその問いかけが持続していることを忘れてはいない。

ジョンダワー(1938年生れ。アメリカを代表する日本史研究者。第2次大戦の破滅から立ち上がる日本人の姿を描いた「敗北を抱きしめて」でピッツリァー賞。)           
 「日本人は悲劇から新しい創造的なものをつくり出すことが出来るということです。」「被爆国である日本が、原発事故という形で新たに放射能の恐怖に襲われたことは、これは歴史の悲劇的めぐり合わせとしかいいようがありません。」「原発の安全を根本から考え直さねばなりません」「一般の人も加わるボトムアップで議論を重ねるべきでしょう。」「何が重要なことなのか気づく瞬間があります。すべてを新しい方法で、創造的な方法で考え直すことができるスペースが生まれるのです。」「歴史の節目だということをしっかり考えてほしいと思います。」                    2011年4月29日 朝日新聞

御厨 貴(東京大学先端科学技術研究センター教授 同大学院工学系研究科建築学専攻兼担教授 東日本大震災復興構想会議議長代理) UIA2011東京大会 基調講演          
「復興というものを考えるとき、国というスケールでどういうデザインを具体的に示せるかがかなり決定的な意味を持つ。現代はそのグランドデザインを国家が一方的に国民に示す時代ではないにせよ、国の運営をリードする政治家、大企業の人たちなどが、グランドデザインという構想をどれだけ共有する意思を持つかが重要だ。」「現在の日本を見て私が残念に思うのは、国が主導するか民間ベースで主導するかにかかわらず、いわゆる「長期計画」という考え方がなくなったことだ。」「大きな構想が出てこないのが現状だ。」「今回の東日本の被災地は農村や漁村が主体だ。大型のデザインよりも、市町村や集落といった「地域」を重視したきめ細やかな復興のあり方を考える必要がある。そこでキーワードとして考えたのが「つなぐ」だ。」「この国は近代化のある到着点において個人主義的な志向を強めた。これから求められるのは、個人が持つ知恵、知識、技術といったものを単に「個」の中にとどめずに、それを「つなぐ」ことで復興に役立てることだと思う。ハード面のグランドデザインをつくることに加え、ソフト面ではこうした「つなぐ」ことのできる人材の育成が重要になっていく。建築家の皆さんには優れたアイデアを持っている人が多い。今回の会議を通じて日本を世界の視点からご覧いただき、災害に立ち向かっていくモデル構築につなげて欲しいと思っている」。   2011年10月17日 日本経済新聞 

風雨の中、素足にサンダルで立ちつくした若者は、果してどうだろうか。







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