建築設計と経済原理

難しい設計良心などという得体の知れないものと裏腹に、現代社会が公然と求める「どうしたらカネが儲かるか」(という感じ方)を必死で考える事に疑問も持たない精神はどうして創られるのか?




安藤忠雄さんの話があると、そこからの近似かつ具体的に現代日本の建築界の姿について、たとえそれが一方的な視野であっても、ある類推が可能となるので、非常に判りにくい問題でも白日の下に見えてくるような気になることもある。
その判りにくい問題とは、建築設計は何のためにやるのか、ということだ。


ひとつには、単に雨露寒さをしのぐから大きく飛躍して、プライバシーからパブリックまでの分断と役割配分、気持ちのいい空間からステイタスやシンボルを現す空間までの心理や象徴性を問う多様な設計理念が可能な空間の機能性・意味性だ。ところでこれらは、空間という「モノで組み立てられた実体」が発揮する場である。これらは「それらの何々という実体ある空間を具体化するために設計する」ということだ。(注意する必要があるのは、これは設計することになるいわば最終局面に焦点を当てたものだということ。重なる天災からの安全・安心、人口減と超高齢化による町や建物の消滅や維持対応への多様性が現実化している問題からのアクセスはその前提にある)。
普通、若者が建築家になろうとするのは、この種の空間の持つ美しさや気持ちの良さ、機能性などに目覚めて設計をしたくなる、というのが素直な出発点だろう。これは主体的で主観的な発想である。更にさかのぼって例を挙げれば、S.ギーディオンの「空間時間建築」のような理念書の読解にまでたどりつくような歴史的経過を背負っている。
一方で、後付けになる場合がほとんどだが、「(結果としてブランド化し)経済的利益を得るために設計する」という考え方もある。これを客体的、あるいは客観的な発想とすればこの二者は、その出自がまったく違うが、両者が互いに被ること(オーバーラップ)は可能である。ところが、この両者を被らせることはあまりにも簡単なことではない。


美や質はなかなか経済指数に置き換えられないし、説明も難しい。提案する側も、その心意気はあっても経済指数になるような保証が出来にくい。ここ(主体的発想)に、自己を位置づけていると、なかなか経済的(客体発想)になれないのだ。
ところが経済原理を最重要にすれば、建築設計は「商売ツール」となる。それには素材や工法の独創性を大切にしブランド化することが条件だ。つまりグッチやルイ・ヴィトンの考え方に近い。それを出来るだけ可能性のある想定クライアント(漠然とした市民ではなく、建てそうな個人・業者など)に工夫して売り込む。その広報の方法もメディアを活かして利用する……こういうことが当然のようになる。
これは建築設計でも、大学でも教えないし、持ち前として在る自分の商売根性のようなものによってしか実感出来ないものであり、実感した者だけが「主体的発想」と「客体的発想」を被せられることになる。
「主体的発想」が有る、として評価され、それを活かしてクライアント形成期に「客体的発想」に猛邁進出来るとすれば、後者に意識の及ぶ建築家が少ない以上、勝負は確実に付いてくるのではないか。良い悪いではなく現代では、アートとしての個人的な売り込みにはこのような根性や奇想天外な営業戦略がないとほとんど実体(成果)が得られない。あるいはまったく個人を捨て、この方法を組織化していくしかない(その場合は施工も組み込んでハウスメーカー的な発想に行きつくだろう)。クライアント在っての仕事であり、如何にクライアントを自分の思いに巻き込むかが勝負なのだ。


これが経済効率第一主義の勝った現代社会での辺境(建築設計業界)の或る姿であり、この経過の歴史的分析、評価はまだほとんど定まっていないと言えるだろう。





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