@言葉って何だろう

言葉って何だろう?


2月20日の日記の蒸し返しだけれど・・・。


改まって言うことでもないだろうが、言葉って何だろう?
この年になってますます判らなくなってきた。
いや、そういう言い方では誤幣がある。自分が思い込んでいる言葉の価値や位置づけは出来上がっている、というべきなのだろう。ただ、それは自分だけの思い込みで公知ではない。
夫婦の会話でもこうして誤解ばかりだから、協同で、あるレポート一つ書く必要があるような場合には、書類に対する認知の仕方が大幅に狂ってくるのは判り切っている。例えば僕が感覚的に「こんな感じかな」と書く。すると横槍が入る。「これでは誰がどこまで言っているのかわからない」とか、「テーマは先に検討しておいて書くべきだ」などと。

でもその言葉一つで、人を笑わせ、人を殺すのは事実だ。会話と議論は「あれ取って」「これ戻して」から、人間存在の意味にまで至る。
ということは、言葉には共有性があることが明らかだ。その系をたどってゆくと、言葉は科学と同じように客観性の認められたコミュニケーション・ツールとなるのだろう。憲法以下、あらゆる法律が言葉によって表記され、あらゆる契約、交渉事も言葉に頼っている。
ということで、言葉の客観性にうるさい人たちと一緒になると、いちいち言葉の定義から入らなければならなくなり、議論が尽きない。それどころか感覚的なこちらの言葉の使用から人間存在まで疑られてくる始末だ。それでいて日本人の特性として「はっきり言わない」ということもある。そこにあるのは、始めから終わりまで言葉、言葉、言葉の檻だ。
そしてその世界は正直の所、僕には胡散臭い。というのが正確でなければ、とても難しい世界だ。
更に言葉は、文学が示すように感性的要素でもある。言葉の天才がいることは、三島由紀夫に見る如く認めないわけには行かない。あのように滝のごとく言葉が湧き起こってくる世界があるのは、絵画的感性があることを知っている以上、よく分かる。そしてそういう世界は僕には無い。
つまり、ここから一般化してしまうけれど、言葉を使って料理する世界は、どちらに行っても僕らの専門になり得ない。
しかし言葉を使わないわけには行かない。言葉を使うことを職業としている人たちには明らかに負けるのを承知で。なお悪いことに視覚で表現したら、それで皆が判るのかといえば、これはそうは行かない。視覚的な感性上の客観性はかなり大雑把なものだと思われるので、思考というようなものにはならない。まして論理的であるなどということは無い。
ここにデザインなどの問題があり、学会認知の問題もある。

最近、ある新聞記事情報への反応から、デザイン系の博士号取得について、文部科学省に意見書を書いた。担当部署を調べていないからいい加減なものだが、取り合えず意見は言っておこうということで。もちろん、かどうかわからないが、今の所、返事は無い。
この、言葉とその限界を超えたところにあるデザインの両義性について述べたのだが、書いていて、また僕は言葉を使っていると苦痛を感じた。今、書いているこの文章にしたってそうだ。これはデザイン行為には関係無いじゃん、と思いつつ書いている自己矛盾。

遠慮勝ちに言うと、僕は言葉を信用していない。と言うと、また誤解があるから言いなおすと、言葉を信用したくない。僕らが感動し、思い入れるのは言葉ではなく見えるものだ。
一般に、どういうわけか、日本の建築家はそうでもない者が多い(と実感している)が、デザイナーと言われる人種は、あまり本を読まない。字面が蟻の行列のように見えてしまうから、内容に入れない。文字量が多いだけで読む気がしなくなる。
しかしこのためにデザイナーは、社会常識に欠けた人種にもなり、されやすくもなる。
先に言った通り、僕らはそうは言いつつも言葉でコミュニケーションをし、意志の疎通を図っているのは明らかなのだ。
人生の活動できる総時間から見れば、塗ったり、張ったり、線を引いたりという行為の蓄積時間は、文章作法の修練に明け暮れている蓄積時間との相殺の駆け引きだ。どちらかに夢中になれば、どちらかが減るか無くなる。またそのくらいでないと専門職とは言えないだろうという含みがある。
かといって、どちらかにせよとも言えない。
差し当たり、どの大学のデザイン科も、専門課題の提出を論文でよいとしているところは少ないだろう。事実、論文でデザインだと言われても困る。であれば、社会に出る前に、どこかで、血が出るような言葉の意味と力の本質を、凝縮して教える必要があろう。さもないと裸のまま世に出すことになる。そうはさせたくない。