更にブルーノ・タウトを知る

*更にブルーノ・タウトを知る。


現在、ワタリウム美術館(東京渋谷区神宮前3−7−6)で開催中の「ブルーノ・タウト展」は楽しい。変な言い方かもしれないが、よく出来た展覧会だ。
カタログ出版は4月半ばとか聞いたが、全生涯に渡って旅人であったような人生では、どんな年齢、どんな時代に、どの国に、何年位いたのかということの仕分けが必要になる。特に在日期間は、当然関心が高くなる。これらの仕分けが比較的明確に出来ていて、しかも、往復書簡や日記がその時代時代に合わせて展示されているのが楽しいからだ。さらに、余技かもしれないが、ごちゃごちゃといろいろのモノを造ったり考えたりしている。
例えば、柳宗悦に送った手紙の和訳には「ふーん」とうなる。現在の日本でも十分通ずる言葉が並んでいた。家具や什器も手がけている。デザインとしてはともかく、そのクリエーションに対する全視野が頼もしい。

この建築家は知って久しい(拙著「デザイン力/デザイン心」参照)。
もちろん、建築実作を見た事も無い状態だけれど、何か「全部判ってしまった人」という感じなのだ。
彼に一章を捧げた時は、自然への敬愛、絵画から建築へ、それに都市と建築における色彩へのこだわりが主要な関心だと述べ、特に色彩への思いを問題とした。


一方、今一番、言っておきたいことは「どうしてあんなに、まったく文化の異なった地域に旅し、定住しながら、建築設計したり、絵を描いたり、手紙や日記を書いたり、いくつも本を出版したり出来たのだろう?」ということだ。
僕も確かに10年はイタリアにいた。しかし、そこにあるカルチャーショックで、結局、たいしたことは出来なかった事実がある。タウトは日本の場合でも、当時の建築家協会(日本インターナショナル建築会)が招聘しているようだから、裸一貫で彼の国に渡った僕とは次元が違う、といえば、それはそうだろうが、それにしても、食べて寝ている時間以外は、朝から晩まで創作活動をしていたとしか思えない。その生と創作活動への真摯な取り組みには深く感じ入るものがある。

ここに一冊の本があって、拾い読みだが新しい情報がある。
鈴木久雄氏の「ブルーノ・タウトへの旅」(新樹社刊)で、これによると、タウトの生まれ故郷はケーニヒスベルグ(現在のカリーニングラード)で、ここはなんとあのリトアニアで6,000人あまりのユダヤ人難民を救済した杉原千畝(ちうね)総領事がいたところだったのだ。
それでわかるが、タウトの生まれ故郷は戦略の要衝である一方、北の海に近い荒涼たる原野のようなイメージしかなかったが、緑豊かな静かで落ち着いた町であった「ことは疑いが無い」(現地を訪れた鈴木氏)ということだ。

また、タウトが日本での建築の仕事を望んでいながら、なかなか出来なかった様子も分かってきた。
「日記を読むと・・・その実現のための努力を続けていたかが痛いほどわかる。・・・話があっても途中から日本の建築家の邪魔が入って実現できなかった。本場のドイツ近代建築の巨匠が活躍するのを望まない空気があったのである」(同書P203)
これについては建築家蔵田周忠が、次のように言っている。
「・・・日本がタウトを遇した仕方は、彼に気の毒であった。――日本の建築界に於ては、今や自分たちの国土を知り、自分たちの養われた力をもって、外国人の力を待たずして、我々の時代の我々の建築を、そして日本文化を建設せんとする自信と実力の充実した時期に達していたのである」(同書P201)

来日の2年前に満州事変が勃発している(1931、昭和6年)。国威高揚が叫ばれ、農村が凶作に苦しんでいる一方で、景気回復と共に東京はビルラッシュとなり、「東京音頭」が大流行、カフェー、喫茶店が全盛期を迎えたという。タウトにとっては、ある意味では逆風とも言える時代だったのだ。またこういう時代だったからこそ、「日本美の再発見」も生まれたのだろう。

わが国における建築界と社会のぶつかりあいを外部の目で見る証人としても、タウトからはまだ学ぶべきことがたくさんありそうだ。