建築設計の本懐


過日のNHK「プロフェッショナル」で偶然、隈研吾氏の話を聞いた。
今、熊本あたりで竹構造のレストランを造っているとのことだった。


提案出来る仕事があれば、どんどん面白くなる(もちろん見せる才能は必要)。
これが建築界のメディア事情だ。
顧客には、自社ビルなどを広告塔と考えて、面白い建物をやってくれそうな建築家を探しているという有難い人々も確かに、僅かにはいる。こういう人たちと結びつくと建築設計も俄然楽しい。コンペが馬鹿馬鹿しい。またメディア受けも良くなる。
ここでは建築も一品制作であることによって「アートとなる」。
今、構造解析がコンピュータ化して、一気に何でもありの様相を呈している。僕は構造を考えるのは好きだが、解析の方は専門ではない。でも、また耐震偽装問題を想起させてしまうが、今の構造計算と認可システムにはいろいろ問題があるのだけれど、ここではそこまで踏み込めない。(参考までに言い添えると、最近読んだ本でこの問題に正しい判断を示しているのが、「官僚とメディア」(角川書店)の魚住昭氏だと思う)。
若い建築家や建築家志望者から見ると、構造が自由になったという事からすれば、耐震偽装の原因と結果の解明などは自分の仕事ではないと思えてくるだろう。それに、威勢の良い造形表現の前では全てがかすむ。


建築は完全に二分化して来ていると言えるだろう。
独断と偏見でも許してもらえれば、その最先端にいるのが伊東豊雄氏で、次々に構造と素材にチャレンジしている。彼はもともと、磯崎新氏のような世界に反撥して(実はその流れは丹下、前川に遡り、さらにはコルビジュエに行きつくのだが)、軽さと構造の解体を自己の設計方法にしてきたと思われる。隈氏についてはポストモダンの「変なモノ」を造った後、その反省からか、水や木材などによるシンプル空間と構造に目をつけて「弱さの空間」(=和風に通ずる)を追うようになった。それが彼の言う「負ける建築」という考え方の表層部分だろう。
二人の考えは手に取るように判る(気がしていると言い直すべきか)が、これが二分化の一方である。いわば建築における「表出人間」系指向。
他方には、建築を経済システムの中に置き、住みやすく出来るだけ簡単な構造に戻して空間造りをする設計士も、施工業者も、建主もいる。エコロジー環境や、防災、構造強度、保存など多様な観点からの取り組みやそれらの混合に挺身している建築家もたくさんいる。いわば「筋道人間」系だ。もちろん、両者のバランスを取ろうと腐心している建築家も知っている。また、上の二人だって、「筋道」を考えていないのではないはずだ。
しかし「筋道」系の、性能としての建築は見えにくい上、一体にアノニムだから、勢い表出系メディア受けしなくなる。多分、出版物を見る多くの建築愛好者はまず写真からしか入っていかないだろう。こうして、一般読者や視聴者をも宛てこんだメディアが狙うのはもっぱら「表出人間」系だ。だから設計者もこの系に流れ込んでくると、不可避的にその対流量はどんどん大きくなって来るだろう。いたちごっこになるのだ。


どちらが正しい建築家だ、などと言う気はない。どちらにも関心を持つ人たちがいて、どちらにもサポーターやフォロワーがいるということだろう。
こういう話は「見えるもの」に偏愛か愛着を持っていない人には何もおもしろくない話なのかも知れない。表出人間指向は表出人間系で寄り添う。そこに「偏愛する」サポーターも生じ、これを受けるメディアがいるということだ。
しかし「見える」ということが、いくら建築の宿命とは言え一部を除き一般に、建築メディアが写真写りのいいもの、面白いものしか取り上げない現状には、改めて先行きの不安も感じる。
そういう意味では、イタリアの若い建築家が尋ねてきて、言っていた「伊東の仕事には、ある危うさを感じる」という言葉が、このメディア情報とオーバーラップして、心に残っている。
表出された建築の性能評価が並行して問題にされていることは滅多にない。
これらはメディアがビジネス以外に、その伝達力の限界という壁を承知しているために、建築を「見えるもの」としてだけ扱っていることによって起っている。つまり「表出人間」指向系の危うさが内蔵されていても不問に付されているわけだ。


とは言え、建築の面白さは視覚に凝結する空間の創造にあることには変わりない。
視覚に凝結する表現は、表出された途端に文字通り凝結する。それは計画段階が流動的とはいえ、結果は不動のものになる。そして他とその性能は比較されない。これは視覚系芸術表現のルールと変わりない。
要は、人のカネを使って、自己の空間理念を表出するということだ。このことがわかって、芸術作品に投資するように、自分の所有する空間表現に投資しようとする資産家がいてくれればいいのだ。絵画や彫刻と違って、それ自体、住めたり、何らかの営業や理念実現に資する空間を提供出来るのだから、変な絵や彫刻を買うより実効性が高い。


先週名古屋で、この3月にオープンしたばかりの「宗次(むねつぐ)ホール」という個人所有(と言ってもNPO法人化しているとのこと)のコンサート・ホールを見せて貰った。團紀彦氏の設計とのことだった。
外部の印象は街中ということもあり通り側1面しか「見るもの」がなく、それもあったかも知れないが、ファサード、アプローチ、ロビー周りはもう少し何かあっても良かった。が、232席(1階。サブ席と見えた2階に78席)ある小ホールは、設計を利用者側の立場で見て感心した。空間、設備とも凝っていて、個人建主もよくここまでやらせるものだとも思った。床と天井中央部以外、全部白い、見方によってはチャペル風の塗装内装も、設計者の説得努力があったのだろうが、よく任せたものだ。特注の座席も良い。
最近、楽器メーカーとの縁から、小さいコンサート・ホールへの知識を蓄えていることもあって、楽屋裏は洗いざらい見させて貰った上での印象である。後は、実際の演奏会に立ち会って、音響など確かめてみたい。もちろん貸しホールだから賃料は取る。
オーナーは中京、関西圏で有名なカレー屋さんのチェーン店経営者だそうである。演奏家、音楽家を育てるのが夢のようだ、と施工関係者が教えてくれた。


これなど、まさしく絵画コレクションより面白いものがあるのではないだろうか。
こういうお客さんに、是非めぐり合って見たいものだとつくづく思う。
第二の宗次さんはいませんか。性能が良くて、メディア受けする建物を設計致します。