「新国立競技場がもたらすもの」追記版

【論】


9月9日に書き出して放っておいたこのテーマについて、やっと私見をまとめた。
この設計に関われる身でもないのに、どうしてこう夢中になるのか、自分でもよくわからないところもある。
でもこの問題が、日本の建築設計界の根本的な構造の解明と改革への引き金になってほしいという期待はある。
かましさは承知だし、間違った認識もあるかもしれない。 ただ誠意だけは汲み取って欲しいと願う。


  追記あり(17日):下記内容の●印の一行
        (19日):下記内容の●●印の「民間」、「推進者たちの間では『日本版CABE』と呼ばれている」、「『建築基本法』制定運動にも関わる」の三箇所






「新国立競技場問題をどう考えるか」



少なからぬ建築家が、突然のように発表された設計案に、「何か異様に大きいな」と直感したものの、何も言えない状況で推移して来た所に、建設予定地に隣接した場所に「東京体育館」を設計した槙文彦氏が異議を申し立て、事態があらわになった。それは主に、この場所の歴史的由来が持つ地域力への視点からの論及であった。しかもそこには、まぼろしと消えた1940年に開催予定だった第12回オリンピック東京大会の神宮外苑での敷地選定に、すでに建築家の岸田日出刀が反対していた先例もあった(松隈洋氏)というのだから驚く。


しかるべき建築家たちやその組織が、募集要項が出された時に問題に出来なかったことは、これまでの「決め付け体制」にすっかり慣らされ、問題視する意欲も無くなってしまっていたことを暗示させる。それでも今回の件で、後出しでも現状の選定制度の欠陥露呈と改革への要求、市民やメディアとの位置関係の把握と対応の在り方、更には建築家の思いの発露へのルール化の必要などの問題に認識がたどり着いたとしたら、まずは小さな収穫である。このまま社会問題になればより効果ありと言えるが、そう簡単には行かない。それは建築家と言う専門家集団の問題を越えており、さらに2020東京オリンピック招致の成功が国民的祝祭ムードを内抱しているからだ。その熱狂や、技術的、経済的、心理的な波及効果を読み込んで見れば、巨大であることさえ国威高揚にプラスと受け止められる可能性も大きい。これは国民的問題なのだ。


それを承知しての今後の対応は、有効な成果のために深読みした戦略が必要であり、私見ではここからの扱いは、その緊急性、具体性、専門度から二つに分けて考え行動すべきと思う。


一つは、「新国立競技場はこのままでは良くない」として、その理由を、場所の選定の読み込み違い、工費と後利用の費用対効果の不明、避難安全および既住民の立場からの確認欠如などを示し、計画規模縮小の必要として問題を明確にし、ここに建設が決定したとしても十分となる対応策を示し、社会的にわかりやすく公開し、メディア、一般市民、更には国会議員有志などの理解と協力を呼び込むことだろう。


それには、この場所で良しとする場合でも、落選案の見直しもあるにしても根本的に要綱があいまいだったわけだし、特定設計事務所だけの応募資格問題もある。再公募もあるがルールを決めるだけで揉めそう。●設計者のザハ・ハディッドに事情を説明して、縮小案に変更してもらうのが適正解なのだろか。時間を考えると、槙氏を軸にした再設計委員会(仮)を立ち上げるのも合理的のようにさえ思える。但しこの際、建築家だけが表に出てはならず、主に問題の解明とサポート役として活動すべきだろう。従って主導は、自他称の発起人たちを含めた「民間有識者連合」(仮)であって欲しく、この人選を急ぐべきだ。その上で、百年後の東京の街への現世代の責任として、国、すなわち独立行政法人日本スポーツ振興センターに、この変更案への理解と協力を求めるのである。


二つ目は、この「事件」を具体的な事例として、この問題を起すに至った官公庁施設の設計業務委託方式の在り方はもとより、一般建築でも一定規模以上の確認申請前の●●民間審査制度の確立(仮称「建築・まちづくり支援機構」の公設など●●=推進者たちの間では「日本版CABE」と呼ばれている)を目指す運動の展開である。これには当然、現行の建築基準法建築士法の見直しなども迫られてくる(●●「建築基本法」制定運動にも関わる)。これはロングスパンを要求されるので、上記「新国立競技場案変更事例の成果」に平行して、オリンピック開催年の2020年に立法化が終わるように進めるのはどうだろうか。これについても、メディア、市民、国会議員などの支援と協賛を受けた流れの中で建築家集団が実務案を提示していく、と言う原則を忘れてはならないだろう。*