*「瞬間物」はデザインか―ミラノ・サローネの現実

*「瞬間物」はデザインか―ミラノ・サローネの現実

    • これからのデザインを探って--                               


ミラノ・サローネがこんなに一般化するとは思っていなかった。
それはそれでよいことだが、こんなに日本の若者を引きつけるとは、やはりデザインとなるとイタリア人は商売がうまい、と言わざるを得ない。
そもそも、生活の充足が先にあって、その上で楽しくやれるファンタジーを求める。デザイナーのスタンスもそんな所にあるイタリアでは、かなりの仕事が天才主義的となる。このため、デザイン教育のルールも確立しているとは言えず、個人の才能に任されてきた。
おまけに個人主義の国では、企業はなかなか大きくはなれない。町工房ばかりがやたらとある国、と言えばいいだろう。いきおい取引は個人商店的となる。だからサローネの人込みも、そこに集る現地人バイャーの多くは、地元に戻ればわずか1、2店舗の家具屋ということが多い。


こういう所では、個人の才能が取引されやすい。日本の若者が「やれそうだ」と感じるミラノは、そんな位置にある。しかも「ミラノ発って、国際的じゃない?」という思い。もちろんミラノは、そうして国際的であるべく努力してきたわけだが、実は地元に居て見ればそんなに意識するほど国際的ではない。(イタリアが世界の中心だと思っているからだろうが、更に、地元で売れない物は作るわけがない、という当たり前事情もある。その好みは以外とレトロだ。カッシーナやB&Bイタリアがモダン家具で戦っていると言っても、多くの家具メーカーは引続き何の変哲もないものや猫脚の家具も作っている。イタリア国内の話だが、最大の家具メーカーの一つ、ファントーニの専属デザイナーに聞いたところでは、モダン家具は全生産量の1割程度ということだった。今だってそんなに変わってはいまい)。


しかし、ショウとして新奇性を求め、そこに目をつけるビジネスマンや外国人バイヤーを相手とするなら話は違う。
こうしてこれを狙ってサローネ事務局は打って出、世界の人が集り始め、国外で売れることを目的とし始めたのだ。


で、日本のデザイナーがミラノ・サローネに押しかけるのは、日本に大人の発表の場が育って居ないことと、イタリアから売れるかもしれないという、その「思い国際性」があるからで、それは情報ダムの上下落差から言って仕方のないことだ。日本のファッション雑誌のどれかが数ヶ月に1回はミラノ特集をやっているのをみればその依存関係がわかる。


先週のNHK1CH番組「ザ・プロフェッショナル」に出演していた、プロダクト・空間デザイナー吉岡徳仁さんは、そういうところにいる人たちとそんなに違う層に属しているわけではない。もし違うといえば、彼は自ら求めてミラノ出品を考えていたわけではないのかも知れないというあたりだ。
彼が求めているのは「新奇性」だから、その視点では、現在の多くの若手デザイナーが求めているものとほぼ同じであり、だからそんなに違う層ではない、というわけだ。


実際、家具や身の回りの商品は溢れていて、もう欲しくない。一方市場は、もうちょっとのアイデアで商品の価値やグレードに差がつき、まだまだ購買ニーズがあることを示す。こんな市場の状況を見ながら、それにデザインの歴史を見てきて、デザイナーが考えざるを得ないことは、「これまでにない新しさ」である。直感的に、技術は附いて来ると知っている。


もう一つは、感じる通りに表現したいということがある。
この立場も、素材の多様化、製法の多様化と大いに関係がある。現在では新素材、新工法、これらのコンバイン技術で溢れている。道端の土嚢が家具になるかも知れないし、車のフロントガラスのワイパー孔切り取り残の丸ガラス屑を使って手作り内装ステンドグラスに仕上た例も見た。エコも兼ねて、全くいろいろの事が考えられる時代である。このことを知って、感性表現が、時代のホット・トレンドになって来ていることが知れる。


ところで、こういう時代の流れにメディアも乗り始めたが、これだけでよいのだろうか。
デザインはそもそも、その時のためだけや、ある状況に合わせるためだけに行なわれて来たわけではない。今の時流を込めて言って見れば、「瞬間物」が、あるいはそれだけが、デザインなのだろうか。


そんなことはないはずで、時代、エコ、コスト、素材、造形、市場を良く見据えた商品は必ずあり、それらは一瞬の巨大会場巡りだけでは発見できない場合も多々あるはずだ.
事実、ミラノ・サローネの出品作品の多くは実験レベルを越えていず、デビューが済めば、その多くはサローネの終了と共に忘れられる運命にある。
それはそれでいいとしても、日本のデザイン・メディアの取り上げ方には、それ以外の視点はほとんど見当たらないように見える。サローネは「新し物」探しのお祭りと化しているのだ。イタリア人にとっては、職人的でない難しい技術や、技術のエンド・ユーザー向けのディテールなどには関わりたくないのが普通だから、お祭りでいいし、それが狙いでもあろうが、日本人としてはこれだけでOKとしてしまったり、表面的なお節介(わざわざイタリアのデザインやデザイナーを紹介する、など)に終始しているとしたらどんなものだろうか。