*@デザインの国際会議にある問題

*国際デザイン・リエゾン・センターInternational Design Liaison Centerのシンポジウムに参加して


―デザインの核は複雑な認識構造の綜合である―


国際デザイン・リエゾン・センターは、JIDPO(財団法人日本産業デザイン振興会)が話題のミッド・タウンに移って始めた活動で、6月13、14日に国際デザイン・シンポジウムを行なった。

まず、よくここまで参加教育機関の教員を集めたものだと感心。デルフト工大(オランダ)、ヘルシンキ芸術デザイン大(フィンランド)、イリノイ工大(USA)、プラット・インスティテュート(USA)、清華大(中国)、ツォルフェライン・スクール(ドイツ)の6大学または専門校。面識のある先生はいなかったこともあり、名前は略させていただく。
翌日は松下電気(植松豊行)、日立(大澤隆男)、富士通(加藤公敬)、キャノン(酒井正明)、永木康人(日本電気)、テクノアートリサーチ(御園秀一)、司会が吉田順一(北大)(敬称略)という大手企業デザイン部長畑の顔ぶれ。殆ど面識がある人たちだが、こうなると、外国と国内、国内では企業カラーの違いと、あまりにいろいろの組み合わせで収支がつかない。
前日は、それぞれの学校でやっている事と経験からの考えが述べられ、2日目午後の討論は当然ながら、企業ベースで動いた。

より配慮して言うと、学校にしても産学連携の必要から産業界事情を取り込んで話されているし、産業界の人たちも、教育のあり方に無関心ではいられない。どの分野にいても、デザインの今後について全体的視野を持とうとして話しているわけだから、狭量な世界観に留まっているわけではない。
それでいながら、やはり企業人は企業の視点から、教育従事者は教育現場からの報告、発言にならざるを得ない。
二日目はこうした中から、デザイン問題は、コミュニケーションのあり方に掛かっている、という主旨の討論の流れとなって来た。
議論を重ねながらも、最初にオリエンテーション挨拶をした青木史郎JIDPO部長の話が、よく現状のデザイン問題全体を俯瞰していると思わずにはいられなかった。
青木氏が言ったことは、経済としてだけでなく社会的な枠組みの中での問題を解決出来るデザイナーの創出、教育の方法はまだ判っていない。それを見つけることが仕事なのだ、ということだった。これは同感である。
その意味では今回の仕掛けは、まず広く集めてぶつけて見ましょう、というマーケット・サーベイの域なのだろうと思われた。


そうは承知していても、はなしを聞いていてやはり、個人が内包する複雑な思考と経験、個性によってデザインを語るのであるから、それをまだ見えていないフィルターで透かすのでなければ、デザインの「何を、どう成すべきか」を決められない、という思いが深まった。
一日目はパネリストが全部外国人のため、英語という「くくり」はあるものの、以上の問題に敢えて加えれば、国状、国民性、風土の問題までがあることが思いやられた。


こんなことから、会議の締めの最後に発言させてもらった。
その内容は、以上のことを、ともかくも以下のように仕分けして考え、討議する必要がある、というもの。言い切れなかったが、本当はその上で、その仕分けをもう一度まとめる必要があると言うべき所だった。

仕分けは、
1 企業からの視点
2 国状からの視点
3 教育現場からの視点
4 ものを造る立場からの視点
あたりで区切って議論すべきである、ということ。

その上で、討論すべき内容は、以下のような、人間の思考と行動を決めているものがデザインに与える影響の検討である。
い)言葉による認識の可能性と限界
ろ)論理思考の可能性と限界
は)近代合理主義がもたらした科学的思考の可能性と限界
に)文化の違いがもたらすもの

ここまで言いたかったが、会場からの意見ということで、このあたりは端折って話した。モデレーターの吉田先生はうなづいていたし、最後に青木さんも私の意見に触れてくれ、彼らには分かっていることと思われたが、通訳の方はうまく伝えられたのだろうか。

1と2,2と3は互いに深く関係し合っている。特に言葉の問題は深く、単に言葉を通さないと、考えもまとめられない、コミュニケーションも出来ない、というレベルから、言葉を使うことによってイメージとは別のものになってしまう問題、そのことの教育、産業界、行政における影響の問題、それが発展して「業界用語」にまでなっていることがもたらす問題、さらには言葉を科学のように厳密に使おうとすることの問題、そして文化の違いで言葉への感性も違ってくることの整理問題・・・というように、際限もなく続く。


総じて、国際会議は言葉の意味、文化の背景が了解済みで話されていないので、本当の理解はとても難しい。今回もそのことを感じざるを得なかった。次回に、もう一歩進んだ議論が行なわれるためには、この仕分けを活かしてもらいたいと願うものだ。