アルバロ・シザの建築とマルレーネ・デュマスの絵

アルバロ・シザの建築                                

        
アルバロ・シザはポルトガルの建築家。名前は聞いた事があるように思うが、仕事を見たのは初めて。TOTOが運営する赤坂の「間ギャラリー」で。
非常に素直な仕事ぶり。パビリオン(リスボン万博ポルトガル館)や給水塔のようなものでは思い切り大胆だが、その他ではあまり無理していない。
インタービュー映像を見たが、考え方はとても好感持てるもので、特に仕事の進め方は、建築家ってこういうものだということを、欧米人に弱い日本の役所などで公開教育に使ったらどうか、と考えてしまった。
スケッチを沢山描き、全体構想やディティールを考える。特にアイデアが出なくなったり、考えがまとまらなくなった時に描くというスケッチのいたずら描きの話はよい。アルバ・アアルトも、そうすると何かが生まれて来ると(シザが言っていたと記憶するが)、言っていた、と付け足していた。


一番、感ずるのは、そこに息づく実体感である。そこには、ポルトガルの、広い意味での地中海文明の暖かさもある。
構造や外部形態にはこだわりが深そうで、おや、と思うような架構やひねった曲線を見せる。しかし、本人は奇をてらってそういう構造や形態になったのではない、条件を整理して行ったらこうなったのだ、と言いそうだ。



マルレーネ・デュマス

東京都現代美術館にて

何なのだろう、この親近感と距離感は?


彼女は南アフリカケープタウンの出身で、出生元はゲルマン系とみた白人だ。オランダで研究を続けている。
南アでの白人優位の環境で、何の屈託も無く育った後のヨーロッパ体験も、体内化された遺伝子の開花に過ぎなかったのではないか。

彼女への関心は、あるレベルになるとよくいる「芸術おばさん」で(アマチュアという意味では全くない)、あらゆる社会的な制約には無関心で、生、性、自己表現、他者表現、自他の関係、孤独の中でのコミュニケーションの模索、メディアへの対峙の仕方あたりだけに創造の根拠を求めていることか。
その表現は、何とも言えず不安感の漂うもので、言葉にならない所在なさがある。これが人を引き付ける元なのか、美術評論家や画廊のオーナーが、芸術性の根拠をここに見だしているのか、何だかよく判らない。
この超絶したように見える人間性と、見つけた表現方法が、僕の主要な関心となった。

人間性については、ビデオで私生活を覗かせてもらったが、付き合ったら楽しそうな「芸術おばさん」だったということでいいだろう。ある種の美人でもある。
見つけた表現方法が面白い。その作品の多くが、日本画墨流しの技法である。湿した和紙と思われる紙に大胆に主要な面とラインを描いてゆく。このため、対象の人物はいつも殆どおぼろげで頼りない。人間個人の持つ、表情に隠された内面の本質を抉り出したような画面である。
すでにアムステルダムで日本人との交流もあったようだから、訪日も多く、日本画の技法も知っているのだろう。この展覧会でも、知人であるらしい荒木経惟の「おばさん」写真を併展させている。

この表現方法の、あっという間に出来てしまいそうなところが大いに興味深かった。刷毛などのブラシで描くので、面が大きく描き取られ、鉛筆などの持つウジウジと繊細な所が無く、文字通り「みずみずしく」、すがすがしい。



それにしても、表現空間の空漠たる空々しさのようなものは何なのだろう。
ここでアルバロ・シザと並列にしたのはなぜか。
自分に取っての位置はシザの方が遥かに近く、心も安らぐ。でもここにある合理主義的な精神への安住にはちょっと不満もある。マルレーネの与える、不安とも、快感ともつかぬ居所の悪さは、もしこれがきちんと読み取れ方法論の中に組み込まれるなら、何らかの仕方で表現に結びつくこともあるだろうに……