ル・コルビジュエについて

(About Le Corbusier)
 
(7月11日2ヶ所、各2行追加)



これはとても独断の話である。
というのも、大方の建築家がそれなりの影響をうけたであろうコルビジュエについては、死ぬほど書かれて来ているだろうし、それらを検証するのもデータ分析をするのも、いまや殆ど屋上屋を重ねることになるだろうということを考えると、残されたことは、個人的な直感や印象を述べる方がむしろ価値があろうと思うからだ。

僕自身も建築に目覚めた大学時代のある日、出来上がった上野の国立西洋美術館をうろうろ歩き、動線造形としての立体空間を理解して、これがコルビジュエなんだと了解した想い出がある。ちょうど前後して竣工した、弟子の前川國男が設計した東京文化会館にも出入りしていて(音楽資料室があったりしたので)、両者を比較したりしていた。コルについては、これなら僕にも出来ると(マジで)思ったのだから、青春は凄い。但し、これはもうやられてしまった。後何があるんだろう、と思ったのも事実だ。チャンディガールの都市計画などは後で知った事だ。


そこで、「極私論ル・コルビジュエ」としたい。
現在、六本木ヒルズの中にある森美術館で開催中のコルビジュエ展は、絵画や彫刻、家具などの仕事も同じレベルのアート・ワークとして一緒に展示されていることは評価したい。本来分ける方がおかしいからだ。サン・マルタンの小屋とスタジオの現物インテリアが出ているのも楽しい。
「極私論」は、この展覧会を見ての感想ということでもある。
でも、言いたい事は極めて単純である。フランスの、文化を経済にしてしまう社会構造の存在にまでは言及しないから。


子供はつくらないと妻と約束し、これは会場の放映映像で知ったことだが、家族というものをも、ある意味で敵視したような発言があった根拠は僕にはわからない。近代精神の高揚期にあって、科学的精神であらゆることの未来が開けるとでも信じた結果なのだろうか。この辺が良く分からない。
ただ、彼の心にある奉仕と献身の精神は、あくまでもキリスト教世界が植えつけてきたものと思われる。そこには日本的な妥協は無い。生と死を切って見せるこの宗教にあっては、神から授かった一回限りの現世の生身をどう生かすかは個人の自由だが、その自己責任は重い。その上で、彼はこの人生を俯瞰して、時あたかもチャンスと見えた「建築の近代化のための一解決法」に賭けたのだとしか思えない。
このことはジイドやプルーストの書にある世界と通じているのではないだろうか。
例えばジイドは確か、恵まれた遺産を受けて、自分の人生に賭けるチャンスを得ることが出来た。そして、精神と肉体の葛藤を自己の終生の課題として文学に打ち込んだのだった。


これでもう全部言ってしまった感じだ。
問題は、その実行力となるような、敢えて言えば「狂信」はどうやって維持されるのかだ。
住宅が住むための機械であるという観点からは、あらゆる近代の産業要素はその目的のために奉仕させられる。モデュロール(人体寸法に置き換えた比例尺につけた名称)を発見する、ピロティ(下駄のように地面の階が空いている構造の名称)を持ち込むなど、直感と頭の良さは大変なものだが、これらの構成素材と方法を強引にでも自分の仕事にしてしまうには、その「狂信」の維持が必要である。本人も、放映映像のそこここで、誹謗中傷にも合ってきたことを伝えている。ここには信念を貫く覚悟と、非難に耐えてより強靭になってゆく自己を垣間見ることが出来る。


ところで、一昨日は7月7日七夕であった。どういうわけかこの日に、2000年に企画された「21世紀のヨーロッパを覗く旅」という建築ツアーで一緒だった人たちが中心になって集う「七夕会」という集りを、ツアーで同行した建築画報社の桜井旬子社長が企画して6年ほどになる。この会のメンバーは建築界を知る人ならビックリするような組み合わせで、ツアー時の団長だった林昌二さん始め、鈴木成文、内田祥哉、高橋靗一、松本哲夫、坂田誠造といった諸先輩各氏に我々がくっついた食べ呑み会になっている。僕を誘ってくださったのが亡くなられた近江栄先生で、このツアーの帰りが切符の手配都合で、近江先生と僕だけ別便になったことが奇縁となった。


このことを記すのは、この夜、最近の個人情報ということで、僕はブログにコルビジュエのことを書き始めていて、彼が家庭をどう考えていたのか、どなたか教えて下さい、とお願いしたからだ。
ブログって何?から始まり、ブログを書けない奴はブンロクと言うんだ、など、だじゃれも多く、まとまりがつかなかったが、どなたか(敢えて名を秘す)が「俺は家庭を無視したら放り出されてしまうよ」とか言われて大笑いし、終わりとなった。誰もコルの家庭放棄説に異論を唱えなかったし、このことを書いてもいいんでしょうか、との誘導にも止めとけという声は無かったが、場の雰囲気からして真剣に考えるような空気でなかったからかも知れない。

コルビジュエを思いだすと、尊敬する一方、どうしても仕事以外のすべてを投げ出した面白くもない苦行僧のイメージが出て来てしまう。


(本ブログには個人名が出ています。お断りせずに出していますが、失礼があればお許し下さい)