*―デザイナーが語る歌舞伎本格研鑚(?)―

*「怪談牡丹燈籠」を観る
            
(Visiting Kabukiza, and try to understand the story of "Kaidan Botan-Tourou")            

―デザイナーが語る歌舞伎本格研鑚(?)―
                                       10月15、18日追記



歌舞伎座公演に、しばし時を忘れた。
銀座の真ん中でのぼんぼりに、秋の夜風がうるわしかった。


こんな余興の話も、時には何かの役に立つ、と思いつつ書き始めている。


話は、煎じ詰めれば二組の男女の生きる姿を対比して絡ませ、追い詰める暗転劇である。
一組は不倫関係にあり、もう一組は夫婦である。その間に余興が入り楽しませる。
「牡丹燈籠」の公演は記録によると多くはないようだ。それにもかかわらず、劇場は天井桟敷まで満員だった。


ここであらすじを語るのは野暮というものだろう。
この話を知っている人には、うるさいだけだろうし、知らない人はもともと関心がないから。
設計やデザインの仕事となると、「歌舞伎? それがどう設計と関わるのか」と言いそうな人たちも多そうで、その点からも気がひける。確かにデザイナー、建築家のような輩が、歌舞伎について語るなどというのはどうも胡散臭い。自分から言うのでは身も蓋もないが。


しかし実際には、「新日本様式」(本ブログ1、2月ころを参照)のパリお披露目では、奇しくも現地で公演中だった市川海老蔵一座が会場に来てくれて、座が盛りがった、というか締まったようだ。何で歌舞伎が今後の日本文化の代表になりうるのか、などと考え始めると泥沼となる。
歌舞伎は「実体がある」が、いまだデザインにはないからだろう。
こう考えてくると、ここで歌舞伎に踏み込んでおくのも意味があるのではないか。


とは言いつつも、物語の概要を語らずして、何も言ったことにならないような気もしているのも事実だ。実際に、歌舞伎の演目やあらすじ、登場人物、歴史のどれを取ってみてもほとんど僕は語ることが出来ない。ほとんど何も知らないに等しい。
それに登場人物もたくさんいて、誰の誰それと、人間関係は単純ではない。
ここはひとつ、自分でも整理してみて、どのくらい判っているのかの検証の必要もあろう。

で、しつこいかもしれないが、やはり、勉強も兼ね教わったことも含めて、少し横道に入って語らせてもらいたい。但し、歌舞伎俳優の名前に合わせて演技の様子までセッテイングして話すのはとても出来ないので、お断りしておく。



チャキ、チャキ、チャキ・・・


ここは江戸のどこか、夕暮れ時の水辺である。
付近には葦が映えているだけだ。もしかすると遠くは水気で煙っているのか。
そこに屋根のない屋形船がするりと現れる。


あらすじの出発点は恋狂いして死ぬ娘が、生前、乳母に誘われて舟遊びをしていた時に不倫の男女を見かけたところから始まる。でも不倫組はともかく、この女二人は主役になっていないようだ。
舞台に、実際に喫水線から下を切った屋形船を置いて水面を走らせる夕景は素晴らしい。でもこれは1階で見ているからで、後で上の方に行って見たら、だいぶ窮屈そうな視点にならざるを得ない。1階では水面は見えなくてよいが、上からでは木床しか見えないからもある。


念のためにもう一度、名前つきでこの二組を紹介する。
不倫組が源次郎(中村錦之助)とお国(上村吉弥)、夫婦が伴蔵(片岡仁左衛門)とお峰(坂東玉三郎)である。
そこでまず、この不倫組(源次郎とお国)の方のことを記すけれど、ここで面倒と思ったら、飛ばしてしまって下さい。


お国が、別の不倫関係にあった有力者(旗本=飯島平左衛門=坂東竹三郎)の家督を乗っ取ろうとして情交仲の源次郎をそそのかし、平左衛門を殺すように仕向け、実際に殺してしまう。
このお国役は適役で、男が出す女役の色気をうまく出していた。
この辺の場面は、屋敷の中である。
しかし、死に際に平左衛門は、「家督を相続する者も決まっていないのに、当主が死ねば家が改易(身分剥奪、家督没収)となるのは当然だ」と、お国たちの浅はかな企みを嘲笑う。


町はずれの河原桟敷にムシロ小屋があり、そこに源次郎がいる。
この2人はカネを奪って逃避行するうちに、追剥にあって身ぐるみ奪われてしまい、おまけに源次郎は平左衛門に刺された傷で片脚が動かなくなり、落ちぶれて極貧生活に追いやられている姿である。
お国は料理屋で働いているうちに、もう一組(伴蔵とお峰)の男、伴蔵の贔屓(ひいき)を得るようになっていた。着飾ったお国と脚を引きずるボロ着の絶望源次郎が、真昼間の河原で言い合うシーンはむしろ滑稽で悲哀さえ漂っている。源次郎がすがるように言う。
「お国よ、なんとかその贔屓てえのと、つきあわねえでもらえねえかい」
もちろんお国の返事は決まっている。脚本は良くできている。


もう一組の話に戻す。


伴蔵は、旗本の飯島家出入りの医者が旧知の、ある男(萩原新三郎=片岡愛之助)に仕える身である。
その新三郎を平左衛門の娘お露が見初め、恋煩いに陥ってしまった。新三郎もその恋に答えているのだが、お露(中村七之助)は気を病んで世を去ってしまう。この辺は口上でしかわからない。
この結果、新三郎のもとへ幽霊となったはずのお露が出現し情交を交わすが、これを勤めから覗いてしまった伴蔵が観た女は骸骨だった。
場面は、新三郎の縁側から上がるこざっぱりした屋敷で、右側に奥の部屋があり、大丸窓の障子越に影絵として新三郎とお露のからみが写るようになっている。伴蔵は座敷に上がって襖から覗く。たしか、骸骨が見える瞬間はこの大丸窓が開く。



伴蔵は幽霊のお露の訪問を受けるようになる。それは、死相の出始めた新三郎が、占い師の勧めで如来像を肌身放さなくなり、更に祈祷を受けて家にお札を貼ったために近づけなくなったのを、伴蔵に振り払ってもらうためだった。
貧しい伴蔵とお峰は、お峰の発案で百両出せば片付ける、とお露の幽霊に交換条件を出す。このあたりの現実と非現実の平気な混合、現金な発想などが、観る者に「あんまり硬くならんで」という気持ちのほぐし役を担っているようにも思える。
この辺は、蚊の飛び交う貧しい伴蔵の田舎屋で、幽霊を待つことから場面はいつも夜である。またお札を剥がすための新三郎宅の門構え前の情景も出てくる。伴蔵はいつもビビッている。
火の玉の幽霊が百両投げ出し希望が成された結果、お露は新三郎に近づくことができ、それはそのまま新三郎を冥土へ連れ出すこととなった。


二人は郷里に帰り百両を元手に荒物屋を始め、大きく成功する。そこで偶然、同じ地に流れついていた不倫組のお国を伴蔵は贔屓にするようになるわけだ。
伴蔵の変化に気の付いたお峰は、出入りの馬子に酒を振舞って、口止めされている伴蔵の行状を白状させてしまう。このあたりのやり取りが愉快で、おおいに観客を笑わせている。
このシーンも、店先を含めた屋敷の一部となっている。


痴情、人情の綾をたぐることが仕事でないデザイナーにとっては、このストーリー展開を把握する事は単純な話ではない。
この後に、河原乞食の源次郎は、お国の目の前で、「何者かに誘われて、蛍の群れを追いかけて行き、転んだ拍子に自らの刃で自分を突き刺してしまう」。驚いたお国が源次郎に駆けより抱きつくと、その刃がお国をも刺すこととなる。


伴蔵とお峰は料理屋女のお国のことでいさかいを起こし、仲直りをするようにも見えるが、郷里から訪ねて来て居座ることになった女が夜中に、あたかも伴蔵のしたことを知っていて幽霊のお露を誘導するかのような振る舞いをして、2人を慄かせる。
結局、伴蔵は仲直りと見せかけて、お峰との愉しい夕餉(ゆうげ)の帰路、稲光と雷鳴のとどろく夜道でお峰を殺してしまう。


どちらの組も悲惨な結末に終わるわけだが、これは不義を働いた者は成敗されるという寓意を示しているようだ。ただ、この辺の説得力はストーリーが拡散してしまうせいか、弱い。


この物語には、途中で二回、寄席の高座が出てきて、原作者の三遊亭円朝にあたる語り手(坂東三津五郎)が、事の前後や顛末、これからの前触れを行なう。ストーリーで説明しきれないところは寄席で賄う寸法だ。
怖いはずの話が続くが、灯明が灯された高座にまことしやかに上がってきた三津五郎が何を言い出すのかと待ち受けていると、やおら開口一番、
「総理大臣が代わったようで・・・」
とのたまい、観客が爆笑する。ここで座内がグッとくだける。



「怪談牡丹燈籠」は円朝の傑作とされているが、明治17年に速記本として始めて刊行され、同25年に三世河竹新七の脚色で劇化されたという。今回の「怪談牡丹燈籠」は、昭和49年に大西信行文学座のために書き下ろしたもので、円朝が劇中に登場する仕掛けは大西のものだそうである。
実は「牡丹燈籠」は、ベースが明治になって出来た講談だったのだ。もしかすると歌舞伎の正道ではないのかもしれない。そのせいか歌舞伎紹介本でも、「牡丹燈籠」は出ていなかった。公演回数がすくないのもうなずける。それが「歌舞伎らしからぬ」気楽さを呼んでいるのかも知れない。


ここにあるのは情死、色恋沙汰、カネにまつわる話、と現代のストーリーと変らない。で、何が面白いのか。
近世、近代までにおいては、これらの物語と、恐怖の誘惑、舞台の転換は十分、人を楽しませたに違いない。現代では、むしろ異国情緒、と言っては言い過ぎなら、懐旧の情に浸る楽しみの感がある、と言ったらよかろうか。

「牡丹燈籠」は、お露が現れる前後のシーンに出現する白い火の玉が牡丹燈籠のように見えるからではないかと思うが、物語の主題になっているわけではない。
ストーリー全体でも、どこに焦点があり、誰が主役なのかもはっきりしない。最初に言ったように、登場人物も多く、人間関係は単純ではない。一度観ただけでは、繋がりを理解するのに一苦労だ。

それでも十分、楽しめたのは、会場の空気とでもいうようなもののおかげかもしれない。
そこには懐旧の情を下地に、ちょうど下町で、行きかう人たちがヤァヤァと挨拶しているような和らいだ雰囲気があった。ご贔屓と思われる新橋芸者(?)のような人たちを含め、着物姿もちらほらいて心和ませる。事実、舞台に向かって、「大和屋!」「萬屋!」といった掛け声が掛かり、極貧となった源次郎が「歌舞伎座に行きてえ」などと言って観客を笑わせる。

先にも述べたが、歌舞伎のもつ庶民性と実体感は比類のないものがある。何も心配する事は無い。ちょっと酒を食らって浮世の憂さを忘れてしまっていいんだよ、とささやいてくれているようなものだ。

何が理念だ。何が権力だ。更には、何がグローバリゼーションだ。
歌舞伎はそういうものをあざ笑っているような気配だ。それでいて実体性を持っているところに歌舞伎の現代的真価があるのだろう。
それを支える舞台の和の心遣いにも感心する。遠い昔、日本にあった色であり、今でもすんなり受入れられる。


更につけ加えると、イヤホーン・ガイドと舞台の豪華さのおかげもある。
イヤホーン・ガイドは、その仕草がなにを意味するのか、この話はどう繋がるのかなどの鑑賞法を、要所、要所で耳打ちしてくれる。
花道もまた傑出した舞台装置だと再認識した。たぶん、照明や音響効果や口上は現代の舞台技術や発声術をつかっており、出し物だけが江戸以前となる。


楽しめることがもう一つある。桟敷や客席で飯を食い、飲みものを頂く楽しみであり、2度もある休憩時間に合わせてたくさんの出店があることだ。
歌舞伎座の建て替え計画があるという。出来るだけ、この雰囲気を壊さないようにしてもらいたいものだ。


外国人が何十人か列を作って一幕だけ観れる天井桟敷のために並んでいたが、イヤホーン・ガイドである程度のストーリー把握は可能になっているのだろう。それにしても、シンザブロー、ゲンジロー、オツユ、オクニなどとたたみ懸けられれば、混乱するのではないか。
こういう文化が銀座で観られ、大賑わいだというのも日本ならではと、会場から出てきて改めて感心した次第。