*語り切れたか「モーゼとアロン」

*「モーゼとアロン」―-語りきれたのか、永遠性・精神性・言葉・偶像崇拝          

"Moses und Aron" by Daniel Barenboim and Staatskapelle Berlin,
Staatsopernchor : Was it able to persuade me? About these eternity, spirituality, words, idolatry.


何だ、これは?
聴いてビックリ、観てびっくりのオペラ。



―芸術の秋に―
「怪談牡丹燈籠」に続き、洋モノでもう一度だけ(?)のチャレンジ―デザイナーには、もしかすると、かなり窮屈な内容です。悪しからず。



舞台は刑務所の拡大された中廊下のようなところ。たった二幕しかなく、その両方とも暗い同じ場面だ。
わずかに背景の窓が左右で明るくなったり暗くなったりする程度。後はライティングだけだ。
もっと驚くのは30人くらいいる出演者がすべてダークスーツでサングラス。「マトリックス」のいでたち。これがマスとなってうごめき、移動する。二幕とも。女もかつらを被り同じスーツなのだ。
スーツ舞台というのは欧米での主流なのかもしれない(本ブログ7月15日「背広で踊る『白鳥の湖』」参照)。

これが記録に残る重要な舞台だという。
バレンボイムはカタログでのあいさつで、「20世紀の重要なオペラの一つであるにも関わらず、あまり頻繁に上演されません。したがって、この傑作を日本に持ってこられることを名誉に感じています」と語っている。



まず、食わず嫌いと言おうか、シェーンベルグの音楽を好きになった事はなかった。
まして、オペラなんて。
ところが事もあろうに、彼の「モーゼとアロン」に大枚4万5000円(もちろん一人分)を振り込む事になってしまった。家族なので3倍!
どうしてこうなったかというと、これも(?)家内の仕業(発案というべきか)だ。

何しろ37年ほど前に来日初演した「モーゼとアロン」を聴き、観たのだそうだ。
エジプトの砂漠に広がる群衆の雑居が、美しくエロティックに展開していたらしい。
それが凄く印象に残っていて、またいつかは絶対観たいと思っていたのだという。

そんな矢先に、彼女と大学で同級生だった男が現在、さる大学の音楽史と思われる分野の教授をしていて、その彼がベルリン公演を聴き、日経新聞に7段抜きの絶賛記事を書いたのだ(本年1月28日)。
それを見て日本公演があるとわかったら、もう止められない。「家族で行こう!」となったのだ。
早々とS席を予約し、ついに、この14日に実現した。
ダニエル・バレンボイム指揮のベルリン国立歌劇場(シュターツオパー)オーケストラ(シュターツカペレ演奏会)とコーラス(同合唱団)。バレンボイムが育てたという事から、多分この分野では、今、最高の組み合わせだろう。



で、最初のビックリ。
抽象化された楽劇でも、面白いものは面白い。
抽象的だからつまらない、などという気は毛頭ない。
それでも、このオペラの評価についてはすんなり首を縦に振る気になれない。
ここには禁欲的なまでに簡素化された構成があり、色気のようなものは全くない。
もし評論がベタ褒めなら、深層での音楽家と美術家の違いとでも言うしかない。更には、これも予備知識を持って臨まないと無理、という作品なのかも知れない。

その予備知識(あるいは音楽的感性)とは次の4つぐらいに集約されるかも知れない。

1・シェーンベルグ音楽への感性的理解と共感
2・ヨーロッパ人の「神」についての概念と一般認識についての理解
3・旧約聖書と「出エジプト記」への理解と、それを台本にした意味への理解
4・「ホロコースト(大量虐殺)」の認識レベル。特にナチスヒトラーの残虐行為とユダヤ人の運命についての実体験的な感覚理解


1は個人差だろうが、こんなに難しいの、日本人には無理なんじゃない?
でも、東京文化会館でのあの割れるような拍手は、本当に分かっている人たちが少なくないということなのか。本当によく判らない。


まずこの音楽は基本的にメロディではなく、音響楽だ。シェーンベルグ自身が破壊し、組立て直したと自称しているという新しい音楽については、感覚的にはわかるが、好きになれない。
それはあまりに理念が勝っているように思える。
例えば、マルセル・デュシャンの「泉」は単なる小便器を横に置いただけのものだ。単純に美しいというには問題があるのをわれわれは承知だ。このオブジェが評価されるのは、伝統芸術へのアンチテーゼだからである。印象派まではついて来れた鑑賞者も、ピカソになってやっとなんとか、となると、デュシャンはもう論外だろう。
シェーンベルグの位置もこんなところにあるのだろうか。古典派調性音楽に慣れ親しんでしまうと、もう後は苦しい。

過日、実は同じバレンボイム、ベルリン・シュターツカペレ演奏会で、マーラー交響曲第9番を聴いたが、やはり苦しかった。マーラーはほとんど聴かないが、交響曲第5番の4楽章だけはあまりに有名だし、大好き。そこで聴きなれない他の曲でもなんとか、と力んだのだがやはりダメだった。


2,3,4については、シェーンベルグ自身が作った台本に盛られた意味に関わる。

アーノルト・シェーンベルグユダヤ人だった。このためナチスの台頭を見て、要職を捨ててアメリカに亡命した。
一度はルター派プロテスタントに改宗したものの、反ユダヤ主義が跋扈し始めると、ユダヤ教に戻っていった。ユダヤの思想は「旧約聖書」に書かれている。
この辺に自分で書いた「モーゼとアロン」台本の秘密があるのは明らかだ。でも今回は、彼の取材元である「出エジプト記」に立ち入るのはやめよう。「牡丹燈籠」(本ブログ、この前)でストーリーを語り始めて、辟易した。文章書きでないこともあってとても大変だ。

ポイントはモーゼを理念の神格化の権化とし、兄のアロンを世俗と偶像崇拝ヒトラーなど)の代弁者とする見立てになっている点だ。この2人が対話し、言い争う。その間にスーツ姿、サングラスの群集は薄暗闇の中をうごめき、徘徊するだけという構成。「偶像」に巨大なシルバーのこれもスーツ男を持ち出し、これが競り上がり、また沈下し、首だけ先に出てきて引きずり出され、立てられ、倒される。



「アロンは『慈悲』『愛』そして『信仰』に感激して語り、モーゼは『認識』『知識』そして『思考』について語る」
「アロンは神に対する愛を語り、神の公平さについて語り、報酬と罰則について、慈悲と同情について、乳と蜜が流れる約束の地について語った」

「シェーンベルグモーゼとアロンの間にひいた境界線は、アロンの側に聖書上の神が立っていることを示している。それによってモーゼによるすべての律法は、(アロンの言う神が)誤った崇拝の対象、自己神格化として暴露される。こうして聖書の神は自らが禁止した偶像崇拝の犠牲となっていく」
「(クライマックスでの民衆は)聖書に書かれているようにただアロンにむかって、モーゼが戻らないことを嘆くだけの存在ではなく、(聖書での)黄金の子牛(ここでの「偶像」)を作ったことによって、昔の信仰の対象であった神々、つまり昔の秩序を返さないのならば、モーゼ、アロン、長老たちを殺すと脅しているのだ」

「シェーンベルグは「黄金の子牛」(「偶像」)を単なる偶像崇拝とは見ていない。この「金の子牛」は、アニミズムの生命力、民衆の日常生活での土着の信仰が具現化された姿であり、その点に、シェーンベルグが仕掛けたこのオペラの新たな対立項と緊迫感が生まれているのである」
(以上、上演カタログ、「永遠性とは、彼の精神性である。口を通して語られる言葉とは、現象に過ぎない」byアーノルト・シェーンベルグ:ヤン・アシュマン、抄訳:大田美佐子より。文中括弧内は大倉)

つまり、偶像崇拝が問題なのではなく、その中身だというわけだろう。それが全体主義や、合理主義、あるいは金権万能社会、さらにはグローバリズム万能のような「偶像」でなく、地域共生主義のようなものであるなら認める、と言っているようだ。ここには明らかに追い迫るナチスと戦争への抵抗の精神が下敷となっているように見える。



演出はペーター・ムスバッハで、劇場の総支配人でもある。
1949年生まれで、同じくカタログに「演出家ペーター・ムスバッハの軌跡」を書いている寺島正太郎氏は、こう言う。
「1968年前後の世界的な『学生反乱』の時期にちょうど大学生だった世代である。日本でいう全共闘世代にあたる。たとえば作家の村上春樹も同年生まれだ」
「その後、いくつかのムスバッハの演出したオペラを観て・・・表現主義的な驚きに満ちた舞台は『考える』よりも、まず『感じる』べきものではないか?と考えるに至った。論理性よりも多く深層心理に訴えかけるものがムスバッハの演出および舞台美術の特徴で、ロールシャッハ・テストのように、私たちは連想力を存分に発揮して楽しむべきなのである」
「2004年にベルリン国立歌劇場が満を持して『モーゼとアロン』を取り上げるに当って、ムスバッハは特定の宗教やイデオロギーにとらわれることなく、きわめて普遍的な問題をはらんだ政治的寓意劇として観客に提示しようと試みている」



理解のポイントは言葉にあるのかも知れない。
日本の観客は舞台両袖の電光テロップ看板に現れる日本語からしか、歌っている歌詞の意味が判らない。それは簡略化されたもののはずだ。ドイツ語では、もっと感情の流れや、意味の拡大解釈や限定解釈に納得の行く表現になっているのではないだろうか。テロップを見ていても、その直接の言葉上の意味はわかるとしても、どうしても実感として体に響いてこない。
更に、すでに述べたことがあるが、その国の言葉でしか実感出来ない情緒というものもあろう(本ブログ本年2月19日「晴朗無窮にこだまする空間」参照)。

その上で、やはり、言葉の深い意味をわれわれが知らないからなのか。
例えば、「おお、神よ」と言った所で、どんな神を思い出せばよいのか。

ここには、とても気になる言葉があちこちに出ている。それを一部記しておく。
まず、既に記した、
「永遠性とは、彼の精神性である。口を通して語られる言葉とは、現象に過ぎない」byアーノルト・シェーンベルグ
舞台の最後にモーゼがうめくように吐き出す言葉
「言葉よ、私にはお前が欠けている」


いずれにしても伝達の問題が難題、難解で、バレンボイムがいかにシュターツカペレを育てたにせよ、その音楽のパフォーマンスが素晴らしいにせよ、理解しよう、理解しようとあがいているうちに終わったのだった。


(追記)上記の寺島正太郎氏は、「1999年、設計コンセプトに『モーゼとアロン』の影響もあると言うダニエル・リーベスキント設計によるベルリン・ユダヤ博物館が竣工し」と記している。
リーベスキントが難解な設計理論を組み立てたことは想定できるが、この博物館を実際にみた限りでは、どこでどう繋がっているのかは定かではない。逆に、初演が2004年であるから、この建物を見ただろうムスバッハが影響を受けたことは十分考えられる。