近江榮先生のこと About professor Sakae Ohmi

忘れられない抵抗者

About professor Sakae Ohmi

●部分は3月10日追記


近江榮先生のことは忘れられない。
先生はいわば無名の建築設計者のプロモーターだった。●それどころか、僕のような建築界でもはぐれ者のような者、あるいは言い方を変えれば、建築をデザインの方に引き戻そうとするような者にも温かい手を差し伸べて下さった。


ロンドンだったか、そこから東京までJALのファーストクラスで、先生と2人だけで10時間以上か、飲み食い、かつ語ったなんてのは、僕一人だろう。


今夜、「近江先生の想い出を語る会」があった。亡くなられてから、もう1年位経つだろうか。爺さんが多かったが大盛会だった。
今頃になって、というのは、考えようによっては、実に近江先生のことらしい。


押し出されて、いつの間にか、反体制ではないにしても、ご異見親爺の首領みたいにされてしまったようなところがあり、そこがまた何とも親しみ深い。
亡くなられてから、先生の存在を惜しむ声が段々と大きくなってきたというようにも言えそうだ。昨今の建築界事情も十分に理由のあることだ。


ご承知のかたも多いとは思うが、僕はこの旅行の時(確か1995年頃、後で確認する)が最初の面識で、諸先輩をおいて何か言う立場にあるような者ではない。しかし、お会いしてからは先生が面倒見がいいということか,何や可やとご縁が深くなった。
日大建築科を出られて、その流れで日大教授になられ、あらゆる主要なコンペの審査員などで勇名を馳せた。晩年には「建築家フォーラム」を主宰され、ここに呼びつけられて個展もすることになったいきさつがある。


さて、何を書いておきたいかと言うと、終わりの挨拶で、司会者と、親父によく似た息子さんの哲朗さんも言っていた父の言葉(退官記念講演)という、「出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打たれない」という含蓄のある一言と、会場で配られたチラシにあった、「無名の設計者にも機会を」という一言である。


「出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打たれない」ということは、多分近江先生の社会的位置を適格に表現した言葉でもあるだろう。
まわりが心配するほど、過激な発言もあったようだが、このころのことは存知あげない。チラシの編集者はこう語る。
「指名コンペの名を借りた擬似コンペ(注:建築設計者を最初から決めていたり、発注ゼネコンを決めていたりした上で、公平を装うために行なうコンペ。参加設計者はひどい目に合う)の横行。設計者の過度な負担と低い報酬。応募者の著作権を確保していない発注者の認識不足・・・。・・・(これらの整備が)十分に整っていなかった。
『もっともふさわしい設計者を選ぶための支出を削ろうとする姿勢がいかにナンセンスであることか(発注者に)理解されていない』

『(状況を)改善しようというアクションを起こさない建築家に僕はやや絶望しています』」(『』内が近江先生の発言)


要するに、建築と建築家、あるいは僕のようなデザイナーへの愛に包まれた人だった。それに、体制的なところがなく、広く公平だった。
専門的になると、いろいろあるが(コンペの仕方への提案とか)、ここではそこまで行く必要はないだろう。
このような師が減り、どんどん見当たらなくなってゆくところに現代の危機もあろう。


また書かせてもらおう。