ザハ・ハディッド

【日記】

「カタチだけ」に賭ける命


一般の人なら、この展覧会を見たら驚くだろう。
「え? これが建築?」と。
今、東京オペラシティで開催中の「ザハ・ハディッド展」のことだ。念のために言うと、これは人の名前で、この人はイラクはバクダッド出身の女性建築家(年齢不詳だが60才は越しているだろう)で、今度の東京オリンピック競技場の設計者である(単純に「設計者」ということでは済まないが、ここでは一般人目線で省略する)。


会場を見て回って感じるのは「形だけ」である。
もちろん、「凄い!と驚く」ドラマ性という概念を目的としてである。


建設コスト、敷地条件、有効平面量、空調設備、雨水対策、各種法規、メンテナンス(維持補修)・コストなど一切、気にしない。もちろん工期も、かもしれない。
「まったく造形からだけで(設計に)入っている」
もちろん、これは専門業的な言い方で、さらに専門的に解説すれば、使用目的や規模、収容人数、採光方向、アプローチ(建物への接近)方向、想定階数と高さ、傾斜度などの地盤状態・周辺事情など土地の状況、などの一応の予備知識は把握した上での話だが。もっと先へ行っているかもしれない。コストも無視とは言ったが、設計実績を重ねてくると、一件当たりの工事総額や、単位別コスト、国別コストなど大まかなデータが揃いはじめている可能性もある。

300人くらいスタッフがいると聞いているので、それぞれの分野のプロがいて、建設の実現性(設計の上記内容がそろっているからでなく、高額でも何でもいいから頼んで実現するんだ、という特命受注があるということ)があるならば、思い切って「遊べる」。OKが出れば、そこから構造でも設備でも後追いできる。もちろんコスト、メンテ方法などはほとんど無視で始められる。というより、どうにでもなる、と考える。
これは指名の競技(コンペティション=コンペ)でもかなり近い所があって、「とんでもないものを提案する」ことが分かっているから指名されるわけで、「とんでもない建築」なほど、その評価度が上がる傾向がある、つまり当選する可能性が高いだろう。


ザハがこういう道を選べたのは、イラクという育ったであろう国柄が深く関係していそうだ。高温で湿度がなく雨もほとんどないために樹木もない砂漠のような土地。こういうところでは耐熱、深い日陰、風塵対策のようなことが主な問題になり、あとは「存在の意味を問う」ことだけになりそうだ。ピラミッドを見ればわかる。


このような設計は日本では普通なら、怖くてとても提案出来ない。地震、暴風雨、火災、水害の大国の上に、春夏秋冬の季節変動が心を揺さぶる。そうであるならば、よほどの特殊建築物でない限り、安全、安心、採光・通風換気が優先されるのはいやでも受け入れざるを得ないからだ。
そういう前提に立つと、国(この場合、日本のこと)がそろえた規制はもっともとなり、そこから、気が付くと、どこまでも規制に順応した心性になっているのだ。規制する側はどんどん規制の輪を大きくしており、その分、結果的に自分たちの責任回避にもなる。こうして我々はそれに慣らされた状態で、これらの設計条件ができるだけ高いレベルで調整されているのは当然だと憶え込んで来た。
次に対顧客問題。コストとメンテナンス、保証、工期の解決が最初から最後までついて回る。「お値段で勝負します!」「これだけ保証します」という売込みが優先順位の上に立てば、文化力のようなものは出る場もない。というのは正確でなくて、営業として美しいとか、気持ちがいいとかを大いに売り込んでおいても、その実、これらは刺身のツマの扱い、ということ。それが日本の実情だ。
さらに問題は、日本では一般市民が建築家を、多くの場合、工事業者に近い(すり寄る)「設計業者」とみている点である。信頼されていないのだ。公共建築の発注者たる官公庁も、実は信頼していない。これでは外的条件の状況についてだけでもトリプル・パンチ以上で、ザハに追いつけない。
気が付かれたかもしれないが、大きな公共建築の設計競技の場合や、アラブ、中国、アメリカの一部超資産家が、いろいろの目的で変わった建築を特注するなどの場合は、一見これらの制約から解放されるように見える場合がある。それでも、どんな場合でも造るものは「箱物」というモノなのだ。人が働き、使うという空間性能と「すたれ」から逃げることは出来ない。


彼女がイギリスに行き、レム・コールハースの建築事務所に入れたのも運がよかった。コールハースは、センスというよりとんでもない考えでコンペを荒らしてきた男という印象があり、見てきたいくつかの作品には感心しなかった。でも空間造形感覚とは個人的なものなので、「建築」についての現代的意味と設計プロセスとその技術を教えてくれればザハにはまったく問題がなかったのだろう。長く売れなかったようで、黒地の紙にとんがった形態のひし形の多い絵ばかり描いていたようだ。

ザハのことは90年代の初めころから知っていたが、これは日本ではとても無理だろうと思っていた。また、これでよければ自分でもやれると思う建築家は少なからずいるだろうとも思った…自分も含めて。
実際、映像で見ると、柱や壁を鉛直に立てないことが大原則で、鉛直にするなら思い切ってキューブにして真ん中をえぐって変形した穴を空けるとか、平面上の角度をめちゃくちゃにするなどの配慮をしている。出来れば壁も天井も、つまり外壁も全部曲面の中に収めてしまいたい。これらのディテールは、あちこちの他者の設計で借用されてきたが、ザハでもどうにもならないらしく放っておかれているところがある。開閉する窓のサッシ枠や扉である。
それでも受注できるには、最近の建築素材、建設技術や設備の大躍進とコンピューター力がある。CAD(コンピュータによる設計技術の総称)の進歩で、超複雑な構造計算が可能になり、施工レベルから設計の出発点の方まで俯瞰することも可能になってきた。ザハは、こういう時代のめぐりあわせにも助けられている。


ところで、こういう建築家を、東京国際競技場の設計に選んでしまった。展覧会場には、この競技場のCG(コンピューター画像)がでかでかとたくさん出ていて、歓喜に包まれた競技場内の雰囲気を醸し出している。

ここから先の話となる、選定事情やその心理についてはすでに述べた (本年1月25日当ブログ「安藤忠雄さんの功罪というより期待したこと」を参照)。
この件は現在、すでにもっと先の方、設計施工一貫性の容認事情の話になっているようで、理念としての建築家自身の存在の危機に至っている(日本建築家協会ではこれまで、理念的な観点から設計と施工の役割は切り離してきた)。

ザハに頼んだのに、ザハどころではない、というわけだ。