伝承をし忘れたデザイン協会

【日記】 2月3日、13日。後から別日に関係記事を書いても混乱するだろうから、記録の意味で、この日(1月30日)のブログに補足しておくことに。●部分です。



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歴史に踏み込み始めたデザイン活動――伝承をし忘れたデザイン協会



JET STREAM・・・
城達也のナレーションで始まるラジオ番組の音楽に魅せられたのはいつの時代だったのか。これを知る世代はすでにはるかに高齢化しているのだろうか。何しろ2、30年続いたらしいからかなりの世代に渡っているはずだ。
過日、新聞広告でこのCDセットのことを知り、気になっていたが結局、購入した。そして聴いてみた。
ある時代のことが一挙に思い出されてきた。


高度成長期の喧騒の中を育っていた自分が、いつかはヨーロッパに行こう、と心に決めるのに、この番組は確かに役に立っていた。

当初、それほどヨーロッパは遠い国だった。だから最近の旅番組に見る、かの地の身近さを知ってしまった今の若者たちには、この、身を捨てて日本を離れるような心理は理解しがたいものではないかとさえ思えてくる…。


で、情報の少なかったあの頃の立身的な行為が、大きく社会を変えるためには自分が思うことをやってみなければ何もわからないような状態にあったことを思い出すと、今は何だか妙に社会が決まってしまっていて、何をやっても先が見えてしまうような気がしてくる。


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すでに前触れしたが、過日、「『デザインを語る場』の実現に向けて」―D-8が語るデザインとミュージアム Vol.3―というデザイン8団体のトーク集会があり、各団体の現、副、元理事長や会長、関係職者らが思い思いに良いことを語っていたが、僕自身にも、いろいろ思うことがあった。(六本木ミッドタウン内:21−21デザイン・サイトにて)

で、最後に会場からというので手を上げて、ミュージアムの運営主体に大きな比重が掛かるだろうととして、それを「キュレイティング」という言い方で伝えた。「キュレイティング」とは、もしかすると自家造語かもしれないが、即断で美術館のキュレイター(つまり学芸員)を名詞化したものだ。
このキュレイターの仕事、もっと言うと、借り物でない場合の館長のものの考え方がデザイン・ミュージアムなるものの性格を決定付けることになるだろう、というものだ。
それについてはデザインがモノの方に比較的に力点が行っている現在、元日本インテリアデザイナー協会理事長だった泉修二さんの発言の中にあった、「デザインの空間への広がり」について、より注意を払う必要があるということを伝えた。また、それが彼も言うように「空間」であるために、「美術館の展示にそぐわない」面が事実化されていく心配を指摘した。さらに、そういう思いの背景として(この後日、紹介する予定の朝日新聞記事にあった)槙文彦さんの発言、「照明や景観といった他の専門領域に職能が奪われている」を紹介し、注意を促した。

インテリアや照明、景観を「他の専門領域」とすること事態が、一種の驚きだが、「職能を奪われている」とすることは、本来はこれらが建築家の職能部分だったと言おうとしているのだろう。実際、建築家としての自分から言えば、自分たちがやってきた分野だろうと言わずにはいられない。
建築家の方に起こっている「解体への危機」問題はさておいて、見方によっては、これは建築家職能の分化がインテリアや景観を職能化したのが現在で、そこに「デザイン」の分野拡大があることを認めることになる。であるなら、デザイン団体がしっかりとこの分野をフォローしなければならないことになるだろう。これが分からずに「デザイン・ミュージアム」なんてにしないでね、という気持なのだ。


この場では時間も無く言えなかったが、このようなデザイン分野の拡大について、僕が日本インダストリアル・デザイナー協会(JIDA) 理事長だった時代には特に注意して努めていたことだった。実際、シドニーだったかICSID(国際インダストリアルデザイン団体協議会)の場で、「インダストリアル」を消そうという動議もあった時代だった。(理事でもあった栄久庵憲司さんが「ノスタルジーがあるから消したくない」と発言し取りやめに)。
そこで僕は、デザイン8団体で創ったNPO「日本デザイン協会」(JDA)の方でこの流れを受け継ごうとして努めてきた。泉さんの意見はその当時のD-8メンバーの心理を表わしているともいえよう。
JDAはその意気や壮というべきか、環境からエコロジーまで配慮したトータルデザインを目指したものだ。


ここに、デザイン界のある時期、特にデザインがはっきり既定もされず、社会もデザインについて狭い意味でしか理解していない時代には、逆にデザインを出来るだけ広く、勇壮に捉えなおそうとする動きがあったことが思い出されるのだ。
そのことは、遡るほど如実に明らかになってくる。
1960年に世界デザイン会議が名古屋で開催され、このために勝見勝が動き、「分野を超えたデザイン界の総力を結集するのが目標だった」(「日本デザイン史」竹原あき子+森山明子監修、美術出版社)ことがわかる。続いて、東京オリンピック(1964)、大阪の国際万博の頃(1970)は、丹下健三岡本太郎亀倉雄策黒川紀章栄久庵憲司らが競い合った。
特に勝見勝は、評論家の立場からトータルなデザイン史観を持っていて、建築も、プロダクトもグラフィックも飲み込んでいた。


繰り返すことになるが、このような史観を背景に、その後の予兆が見えた技術と情報の進化を加えて、環境やエコロジーをデザインの視野に入れていこうとしたのがJDAである。ところが当時のD-8の理事長、会長は、当面の自団体の運営に忙しく、またJDAを屋上屋としてでなく会員に説明することが難しいとして、しばらくはサブ機能としておき、現役職退任後に協力活動をするという内諾で始められたのである。

このようにJDAには独自のトータルなデザイン観があるが、その伝達と広報の任を理事長として任されたのが僕だった。
しかし、うっかり自分の事務所運営、特にデザイン系の世界では内実が知られていない建築の仕事や、その他の諸事情に振りまわされているうちに、デザイン系をベースとするJDAの存在そのものが忘れられ始めていることに気がついたのが最近である。前述のように協力し合うはずの各団体の理事長や会長が、退任後、少なからぬ者が現役も引退し、山に篭ってしまうような者さえ出てきたのに加えて、デザイナーに在りがちな、記録の伝承をしなかったようなことも問題だった。これによってか、代が変わるにつれ、後任の理事長や会長がこのことを知らずに、自分が最初に始めて苦労していると感じているようだ。


デザイン・ミュージアムについても同様で、前述のデザイン概念と分野の拡大からすれば、このミュージアムでも、広く分野とデザインの歴史や伝承について語る場になって欲しく、JDAが受け継いだ因子はここにも持ち込まれなければならないと思うのだ。
(社)日本インダストリアル・デザイナー協会(JIDA)では、デザイン・ミュージアムは長らく議題に上がっていたものである。予算の無いJIDAは、人づての紹介で長野県信州新町の廃校を借り、その関係で町中の使っていない蔵を借りることが出来た。
こういうある時期に、三宅一生さんの「デザイン・ミュージアムを造ろう」という新聞記事が出、それなら「JIDAがもうやっているよ」という話が僕に伝わり(正確にはJIDAミュージアム委員会からの要望があって)交渉し、数ヵ月後に同じ朝日新聞夕刊の同じコラムに僕の記事が出た。(2003/5/22)


こういう背景を説明するのは、当日、借りたトーク会場が六本木ミッドタウン内にある21−21デザイン・サイトで、会場内に、この三宅さんの新聞記事の大コピーが展示されていて、これに一言付け加えたからだ。
意見の最後に、僕は「もう一つ」と言い、この看板を指して、「私も記事を書いているから出して貰いたいですね」と半分冗談交じりに言ったところ、会場からどよめきが起こった。
「この人は何を言い出すんだ。ここは三宅さんの「居城」だぞ。三宅さんに失礼じゃないか」というかのようなどよめきだった。(三宅さんが会場に居たことを後で知った)
しかし僕は、看板があると言うこと以外、三宅一生さんのことは一言も言っていない(事情を詳細に知っているわけではないが、もっと知らない人のために一言付け加えれば、三宅さんは財団を創り、デザイン・ミュージアム設立への基金も出しているようだ)。その後、流れた懇親会でも「謝ることなんてありませんよ」と皆さんが言ってくれたので安心したが、あのどよめきは「何を言うか」なのか、「よく言った」なのか、瞬時には判別出来ず、驚き、たじろいた。


●三宅さんと周辺事情を含め、少し補記する。
もともと、JDM(JIDAデザイン・ミュージアム)は、構想段階から元理事長の木村一男さん、後の副理事長だった宇賀洋子さんや、事務局長だった長坂亘さん、他に思い出すだけでも倉方雅之、大縄茂、伊那史朗、上田幸和さんたちが献身的な努力を重ねてきてくれたものだ。
新聞記事が出揃った後、ブリジストン財団の理事長、石橋寛様の計らいで、JIDAと三宅事務所が一緒に財団事務所で親睦を図ったことがあり、その時に初対面している。(JIDAが六本木のAXSISに事務所を借りることになったのは僕の時からで、広い地下のスペースを誘導されたが、何としても頑張って採光の取れる4階にして貰った。そのAXISビルの所有者が石橋財団。またこの頃から、JIDAミュージアム委員会が発行する「ミュージアム・セレクション」誌の出版経費の大方を石橋財団の補助に頼ってきているような縁がある)。
せっかくのご縁だったが、当方も業務多忙を極め、その後、三宅さんと話す機会は持てなかった。
今思うと、実際、スタッフ4,5人の一事務所の所長が、400人の団体を引っ張ることは大変なことで、特に理事長直前の仕事だった「契約と報酬のガイドライン」を作った年などには、毎週、何時間も事務局に詰めるような状態で、事務所が赤字になってしまった。その一方、公益性から当然だが、理事長であることによって事務所の仕事が増えたなどということは一切無かった。理事長給与は無く、むしろ長い間、地方出張もすべて自腹だったのだ。これでは、どこからか給料が出ていて(経営に責任を取る必要が無く)十分時間が取れるか、最初から名誉だけ貰って何もやらないか、実働部隊の揃った大きな事務所組織でも持っていなければ、とてもこれだけの団体の長としてはやっていけない。
その努力が、代が変わるとどんどん評価も伝承もされなくなる。「俺たちの努力はどうなったのか」という気持が拭い去れない。後で、分かったことである。●


思うに、我々のデザイン活動がすでに歴史に踏み込み始めたという感覚が生じ初めており、そのために、頓珍漢に受け取られないためにも、自分や当時の関係者たちが団体のために成した仕事の説明や、デザイン協会の成り立ちを伝承し忘れないようにしなければならないということが実感される。
誰かが伝承してくれるなんて思っていては駄目なのだ。