ジョセフ・コーネル Joseph cornel

「箱」にみる世界観

Box makes another world.


NHKの「日曜美術館」だったか、昨日の日曜日に「ジョセフ・コーネル」の紹介があった。

恥を覚悟で言うが、コーネルのことは意識になかった。
どこかの展覧会で他作家に混じって出品されていたことがあったのかも知れない。そう言うのも、僕には彼の作品については,あえて例えれば、身近かすぎて[当たり前」に思って看過してしまう、という類の仕事に見えるからだ。


それにしても、登場した稲葉ヨシエ(ファッション・デザイナー)、高橋睦郎(詩人)、勝本みつる(造形作家)、柄澤斎(版画家)、今野邦一(仏文学者)の5人が揃ってぎょう舌なのには妙に感心してしまった。


「当たり前」といったのは、つまらいという意味ではない。
昨年始めにも書いたが、「箱」の考えは僕にもあり他人事ではなく、それなら俺も考えているよ、という意味の「当たり前」なのだ。


コーネルは独身だったのではないか。
自宅の地下室で倦むこともなく作品を作り続ける姿は、端から見ると変人か狂人に見えたのではないか。
温かかったり、やりきれなかったりする女房の仕切りや、わかったり分からなかったりする子供の存在は感じられない。
死の墓標作りをして、生を止める創作活動のあり方は、妻子を抱えて経済生活の中に生きてしまっている人間には難題となる。
こういう風にして作品は創るものなのか。その静謐と孤独感をコーネル本人は感じていなかったのだろうか。


創作は、何とか、新聞や雑誌を読む気分で出来ないものだろうか。
当然だが、コーネルのアトリエには、あらゆる素材が詰まった箱が並んでいて出番を待っていた。
でも、「それらが場所を得、使命を抱くと、生命を持ち輝きを増す」という言い方は、美術評論家や詩人の夢想や独断ではないのか。
女房がいれば、ガラクタを弄り回すゴミ屋に見立てるかも知れない。
唯でさえ、コーネルと同じことをやる気にはなれない現今、どうしたものかと思案にくれる。


(この続きは、もしあれば、また明日以降に)