「ダウト」を観て考え込む 「DOUBT」 BY MERYL STREEP

不寛容についての雑談(後日記あり)

INTOLERANCE, WHAT IS THIS?


専門の話からは脱線。
どうしても許せない。そういうかたくなな態度の持ち主はいるものだ。
しかし、それは日本人のいう許しがたいものとはちょっと違う、ヨーロッパの精神にある、許さない心だ。


僕は、どういうことを言おうとしているのだろうか。
日本でも、カトリック系小中高等学校における戒律厳守や、清掃、身だしなみ、行動への厳しさはかなり身近に感じてきた。それは家内も、ある仕方で一部体現してきたことにもよるし、ずっと昔から、僕自身が殉教者や聖職者の世界、あるいはヨーロッパ人の恐ろしいところには妙にひきつけられるものがあったからだと思う。
例えば、これも映画の影響で言えば「尼僧ヨアンナ」だった。あるいはバルザックの短編(「谷間のゆり」ほか3編にあった)。しかし、これは今は話せない。


ここで言おうとしていることは、テーマである恐るべき不寛容について、しかもそれがカトリック系の学校の教員間、実際には神父と校長の間で起こっていることについてだ、というより、そんな話が自分に何を意味するかだ。
その源流は相変わらず映画の上の話で、本日見た「ダウト」のことである。またまたメリル・ストリープが主役だ。(東急文化村ル・シネマ2で上映中。このところ立て続けに出ているが,「マンマ・ミーア」とはまったく逆の、疑心に満ちた女校長役のキャラクターでこれも申し分のない演技だ。神父を含め、他の役者もすばらしいし、監督も脚本も秀逸の出来。もともとは舞台用の戯曲だという)。


しかし、今夜は心が落ち着かない。引き続きは又、後でとしよう。


後日記(29日)

この映画の教えるものは、実際にこの映画を見てもらうしかない。
校長シスター・アロイシス(メリル)が、フリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)の在学少年への同性愛行為を疑って学校から追放するという話だが、実際の目撃者も証拠もなく、ただアロイシスの経験による勘と信念だけで行動するところが恐ろしい。
神に誓った正義感から動くアロイシスの判断は、つまるところ、正義とは何かを我々に問うてくる
日常の、1964年のニューヨーク・ブロンクスでの神学校での見えにくい事件をテーマにしながら、問いかけてくることは人間の本質に関わる深いことだ。


日本の現実として考えると、日々、自分の行動と他人の行動について、これほどまで追い詰めて考えるだろうか。
逃げられない警察や検察の立場ならいざ知らず、もう勝手にしてくださいとか、もう降ろさせてください、と言いたくなるだろうし、問う方も証拠も無ければ、こんなにまでやっていいのだろうか、と思うような事態が生じて普通だろうと思われる。
現在の日本では、ここで言う正義は死語のように問われなくなっているといえよう。
それでなければ、こんなに抜け抜けと見え透いた自分の関与の否定や、事実を知らないという政治家や行政者、あるいは経営者たちがのさばっていられるはずは無いからだ。


それは自分の内面の正義感にもつながっている。


監督:ジョン・パトリック・シャンリィ、若い修道女:エイミー・アダムス、疑われた黒人少年の母:ヴィオラ・ディヴィス