新しい職業の形成に向けて
―JIAデザイン部会(社団法人日本建築家協会・関東甲信越支部)での講演を終わって―
Main stream of my work is not on the forming of architectural and design style but the presentation of the new occupational way.
大不況最中の年度末最終日、3月31日の講演会は、成功裡に終わったと喜んでもらえた。
出席者はおそらくこれまでの内々の部会レベルから大きく拡大し、各種デザイン団体の理事長さんや、デザイン学校の経営者、さては特許庁の方から、当事務所の退職スタッフまで広がった。
建築家の集まりなので、工業デザインと建築の落差を際立たせて話そうと思っていたら、主催者の連(むらじ)さんはそうではなく、時系列に経験を話してくれという。そういえば「デザイン力デザイン心」という講演テーマは自著の書名であるし、そこで語ったことは生い立ちに沿った経験談が前半を占める。出席者が雑多になる以上、その方がいいかと思い直した。
話していてわかったことは、自分のやってきたことの中核部分は、この時代の、空間造形上の新様式を確立するということではむしろ無く、「新しい職業」形成への一試案の提出という作業にあるのだ、ということだ。
もっとも、新様式の確立とはいっても、そんな大それたことが作家個人で出来たことはほんの僅かだ。ピカソ?コルビジュエ?彼らにしても時代の大きな変化点に立ってこそ可能だったこともある。現代のように目の子を変えるようなスピードで様式が流れていく時代に、誰もが同じようなマスの流れに晒されているとなればなおさら難しいだろう。残念だが悩ましいところだ。(「ゴミばかり出してどうする気だ!」とは、フェリーニが、評論家の弁を借りて自己作品を揶揄するときに言わせている。そんなシーンを思い出してしまった)
そういう観点からすると、むしろバウハウスのワルター・グロピウスのやったことに近似する所業なのではないかと、勝手に自覚しようとしている。もちろん、あの時代の変化を画する「見える事業」にまでなったバウハウスと同列に並べようなどといういい気なものではないが、抽象化し拡散し切った現代社会にあっては、見えにくいものが集積して複合解を求めているのであり、その解答は個人のレベルをはるかに越えている。こういう時代だからこそ、小さな個人の事業のうちにも時代精神が表明されている場合があると言えるのではないか、ということだ。
いろいろ錯誤しながら、この一週間以上講演内容を考え続け、レジュメ・メモを書き換えてきたが、当夜は始まってみると、下書きに目を通しているような時間はまったく無かった。意識に上がってくる考えや思いつきをそのまま言葉にするしかなく、言葉にしたことがうまく伝わったか、その前後の脈絡に落ち度はないか、そんなことばかりに気を取られて時間が経過した。
改めて、語ることは大変な技量を要求されることが判って来た。間接的に、あれだけ話題になったオバマ米新大統領の講演のことが思い出され、キーとなる言葉を見つけ、それを多用しなければならないなどと自問自答してきた。
大学でも教鞭を執ってきたわけだから、話すことに問題はないと思ってきたが、最近、「大倉さんの話はかならずしも上手くない」と言われショックだったことが、今回の慎重態度を自分に課すことになった。