S2(二回目のストーリー)

S2


ミラノの冬はつらい。12月から3月まで、ほとんど太陽を見ることも無い日が続く。
日本の空っ風と共にある日差しの明るさはまるっきり無い。どこが「太陽の国、イタリア」だ?
ところがそれを感じるのは日本人だからで、そこにはそこの暖かさもあるのだろう。でなければもっと北の人々の生活も理解できなくなる。
南(みなみ)真吾は、この国に来て10年あまり仕事をしてきた。


日本で生きる、ということが何かとても難しそうだ、とは、青春の真っ只中にあった当時の真吾にも感じられた。
上の方に行ってしまえばとても楽に生きれそうだが、その日暮らしでは何かとてもつらい人生しかないような実感があったからだ。
当時、大卒の誰でもそうだったように、真吾も「一流企業」に就職した。
入社当時、あぁ、これで一生食う心配が無くなったとても思ったのか、新入同僚が粛々と会社の指示に従っているのを見るにつけ、誘い合って早速、同窓会みたいなものを作り始めるのを見るにつけ、ここでも取り残された気分になったものだった。会社の目的と個人の目的が違うのは判りきっていたと思えたからだ。そして典型的なサラリーマン家庭に育った真吾には、この国で他に生きる道が見えなかったのだ。

真吾が日本を出たのは、言ってみれば逃避だが、この得体の知れない実感が後押ししていたのは確かだ。
その本質は何だったのだろうか。
そんなことがあったのに、イタリアから引き上げることになったのは、直接には変なきっかけからだった。


真吾の弟が結婚することとなり、それやこれやで一時帰国し結婚式に参列した。
披露宴の時、嫁さんの父親としばし話をすることとなり、真吾は自分の在伊理由をあれこれと説明した。

「いやぁ、自分のやりたいことが日本にいてはできないのですよ。で、イタリアで日本のために頑張っているというわけです」
「イタリアにいて日本のために頑張るとはどういうことかね。私には、日本のために仕事をするなら、日本に居なければ出来ないとしか思えないがね」
「そうですかねぇ」


会話の重要部分はこれだけだが、その時は思いやりの無いいやな奴だと思いつつも、この言葉が深く真吾の心をざわつかせた。
ミラノでの生活は、日本からの会社派遣を別にすれば、その他の渡伊日本人に比べればかなりうまくやっていたといえるだろう。
それでも在伊8年ともなると、観光気分などのウキウキした気持はとっくに無く、どうやって事業を成功させようかということしか考えていなかった。そうなると立ちはだかるのが外国人というハンデキャップだ。
普通なら同国人で済ますところを、なぜわざわざ外国人に頼まなければならないか、という問題がにわかに大きくなってくるのだ。特にデザインや建築の仕事は個人信用が大きい。
その結果、よりイタリア人になろうとするか、より日本人になろうとするかのどちらかに大きく振れる必要が実感されてくる。ここにはもろ肌を異国の中にさらして生きる個人だけが感じるきびしさがあり、帰属意識が東京本社にある派遣社員にはわからないことだ。
こういう心理状態の時に、「日本のためならなぜ日本に居ない?」という追求はきつい。


つくづく日本人というのは帰巣意識の強い国民だな、と真吾は思い始めていた。
多分、それは日本人の自己喪失と関係があるんじゃないか。言い換えると、日本人はよその国へ行くと、自分を捨てその国に出来るだけ同化しようとする。ところが自分を捨てきれるものではない。それまで気にもせず、価値も感じていなかった日本人というサガが、他国に溶け込もうとして簡単に考えていた分、にわかに傷口となって現れるのだ。
他国の移住民を見ていると、自分たちの生活習慣や宗教は絶対変えないように見える。そして群れをなしてゆく。
ミラノでの個人在住日本人は、とは言ってもほとんど男の場合だが、人脈を作れないのがそのことを証明している。そして皆、孤独の虜になっていく。


そういうことが真吾にも判っていて、こうなると改めて日本人探しを始めるしかなく、そのことが「人の国に居てもしょうがない」という気持ち、つまり帰巣本能を掻き立てるのだ。
でもそのことによって、帰国すれば元に戻るわけではなく、一旦外から見た日本人の島国事情を実感してしまうと、帰国しても何とか日本を変えようとの思いがつのるのだ。
そうは言え、帰国した真吾を待ち受けていたものは、日本を変えるとはどういうことなのかを実感し、処方箋を見つける長く苦しい旅であった。