残る建築へ (2017/12/18:PV記録あり )

【日記】


残る建築



今日は輝くような快晴。

本当にすがすがしい朝!
 
単に日曜日だから、というわけでもないと思いたいくらい。


昨日から、何か自分の考えのまとめが出来るような気持ちになって来ていた。
朝の数時間を、追われる業務を離れて、考え方、表現の方法を模索する時間に充てるように努力しているからか。

自分は何をやろうとしているのか。


昨日。
やはり、建築空間が自己表現に一番近い場だ、と思える様になってきた。
年初などには自分を表現するのに、もはや建築では無理で、アート作品やオブジェ、絵画などを考えていたが、どうも、やはりそうではないようだ。
実現のための提案努力はするが、実際に設計する機会がなければ、スケッチでも残しておくしかないだろう。


自分の「原初」的な活動に、すでに全てが集約されていた。それは、書いてしまうと身も蓋もないようなことになってしまうが……


広くフラットな空間……A山荘設計のときからの実感で、自分にとってはごく自然だ。それは歳と共に、バリアフリー感覚とも呼応してくるようだ。

そこに展開する自然……海や砂漠、サバンナなどの広がりを持つのは、上のフラット感からもウェルカム。足元から自然に近いほうがいい。
山の場合は……森林、しかも深い森林がいい。子供のころの森の想い出からも(「デザイン力/デザイン心」)。これも自然が近いことが重要。山の場合にはフラット感は2、3層になりそう。

更に、水周りが身近に……これは後追い体験でもあるけれど、どうしても人間の裸身と、沐浴の快楽に関心があるからだろう。思い出してみれば、小学生のころからの「泰西名画」鑑賞の下地もある。ここから水周りに人間がいなければならなくなる。
この場合の湯浴み、水浴みには、浴槽、プールなども重要なアイテムだ。その割には川や湖には惹かれないのはなぜだろう。


今日。
昨日の考えを、引き継ぐと、あっと言う間に出てきたのが「露天風呂」。けれども、この言葉の意味するものが、あまりにも和風温泉宿、温泉街風で、ちょっとズレている。
これはこれで大の関心事だけれど、自分の表現要素としては、別の言葉を考えるべきだろう。

水周りと体という考えから、改めてキーとなる主題がはっきりしてきた。

「身体」

もう一つが、

「自然」


こうして、

「身体」+「自然」

更にストックでなく、フローで考えすぎる現代日本人、及び日本社会への警鐘として、また自分の相性としても、

「残ってゆくもの」

その結果、建築の狙いは


「身体」+「自然」+「残ってゆくもの」


となってゆく……。理念的な包括概念は、


「残る建築」


となるだろう。




2017/12/18 事務所整理中にページ・ビュウ記録を発見。間違いがなければ、その一端としてこの日のデータを参考までに記述。この頃は1日に40〜100人のアクセス記録:  42433