イタリア 野暮と天才の間

【情報・論】


「イタリアと日本」何が見える? 

第2講 「野暮と天才の間」を話題とした。


当初の考えでは、野暮の反対語として天才を置いてしまったが、よく考えると、天才の反対は野暮ではなく、凡才とか、馬鹿だ。

どうして野暮でいいとしてしまったのか、そこが問題だが、多分言いたかったことは、天才を生む土壌のことであり、そこに「いき(粋)」のような価値感が生きていることが重要だということなのだろう。何だか他人事みたいで、すみませんが。


こんな言い訳めいた話から、「野暮と天才」ではなく、「〜の間」という方がわかりやすいと説明した。


イタリアにおける言葉の意味の「野暮」でも、それは「かっこいい」「いき」の反対の意味になるだろう。意味としては日本でと同じように使えると思える。
彼らは、特に都会に住む彼らは、自分をかっこよく見せることにとどまらず、雰囲気、空間をかっこ良くすることに相当のエネルギーを使っていると思われる。(靴の隠し方。ショッピングの紙袋でも。歩き方なども) 日本にも江戸時代までは日常にあったのではないか。
それにとどまらず、彼らは人生そのものをかっこよく生きたいということには敏感なはずだ。青春期のそこには、いい会社に入って、一生安泰な生活をしたい、などという考えは微塵もない、と感じたい。


天才を生む土壌とはどんなものかを考える時、イタリアの教育事情を知ることは、ある意味でその「温床」を知ることでもある。
ここでは、その「教育事情」(1)に加えて、
「下地としての人生観」(2)
「企業文化というものはない社会」(3)
バロック的なものへの礼賛」(4)
「反国家、反権力、知的体系への疑念」(5)
というように、いくつかの分野について土壌の様子をたずねてみることとした。


1:教育事情
まず、たぶんそれはとんでもないことになっているのだろうと推測できるが、幸い、事情に詳しい人の報告があるので、それを紹介した。(「破産しない国イタリア」内田洋子:平凡社新書
それは、自己啓発が無ければ野暮のまま―カオスを容認するイタリアの事情―、という言い方が出来るように思う。以下、その主要部分のレジュメ・メモ。
ちょっと引用がしつこくなるので、飛ばしても結構です。


学校に入れれば、手が放れる?と親は考える。1クラスを2〜3名の教師が担当し教科を分担。
義務教育期間は15歳までの8年間(小学校5年、中学3年、卒業できなればプラス留年期間)中学は修了することが義務ではなく、15歳まで学校に通うことが義務。席を残したければ何歳までもチャレンジできる。(1995年の統計では、15〜19歳の青少年のうち、4.7%が中学を修了出来ていない。24歳の中学生もいるとのこと) クラスには後列に相当の年長組もいてまとまらず、授業を聞いていない生徒も多い。

いやいや勉強して落第し続けるより家にいて、職人である父親のしごとを手伝った方がいいという考えの温床となる。

中学修了の92%が高校進学するが、1年目で約2割が留年。そのあとはバラバラ(留年、退学、転入校)となる。期間は5年間で、最速基準は16〜20歳。修了まで行くのは約6割。
専門高校、職業学校は卒業後、すぐ専門職につけるが、普通高校は大学進学を前提としていて、高校学歴に何の意味もない。
高校終了試験は「成熟度の試験」といわれ知識度の試験ではなく課題の筆記試験と口頭試問とのセット。

大学は入試がなく、高校終了試験を通ればだれでも入学できる(医学部を除く)。このため新学期は新入生で溢れかえるが、25%は1年目で大学を去る。二年生まで残るのは4割にも満たない。ただし医学部などは9割が学位を取得(政治経済学部で2割)。教授は、勉強しない学生をかまう気もなく、学生が減るのを待っているため休講ばかりする。
就職先がないため、進学、免状の意味がなく、多くの若者は失業状態をつづけ、30歳を越えても両親と同居が多い。


以下、続けて説明。この多くはこれからの講義の内容でもある。実際、時間もなく体系的な講義にはならなかった。


2:下地としての人生観
生の存在そのものを自己形成するものとして包括的に理解できる教会が近い、というような伝統として、生活のベースとしての宗教的環境が、自己の命を神から与えられ、それによって生かされている人生観を形成しているようだ。
そこから死に対して従容となり、逆に個人、個体としての生を輝かすことを意識するようになる。自己愛の増殖。


3:企業文化というものはない社会―従業員社会からも教わるものはない
すべてがコネを容認する仕組みだから、個人能力、共調心などの高さが揃っていない。
96%が中小企業だが、この方が個人能力を発揮しやすいし、小回りも利く。得意な革新性や創造性を使える。


4:バロック的なものへの礼賛
現代のバロック的社会(ワン・ビン氏の考え方:ファビオ・ランベッリ「イタリア的考え方」ちくま新書p169)。ファッションなどの人の外見は芝居の書割のようなもので、現実の代替物として働く。


5:反国家、反権力、知的体系への疑念(同上書:p179)
体制批判と言ってしまえばそれまでだが、都市国家から生まれた地域主義、郷土愛はすさまじい。