ボッティチェッリ展に駆け込む

【日記】    ● 後日12日、「創作想像に金銭は関係ない」などに再付記説明あり。

   
【後日付記】「ボッティチェッリ」は一般的に「ボッティチェリ」と書かれている。スペルはSandro Botticelliなので、イタリア語の発音感覚では「ボッティ・チェッリ」と言うはずだとの思い込みがあり、知らぬ間に「ボッティチェッリ」と書いてきた。間違いではないはずだが、誤解を生じないように付記しておきます。発音してみると、最後が落ちるのと、跳ね上がるように明確になるのではかなりの違いがある。残念ながら当面、すぐにイタリア人に聞くチャンスがない。




ボッティチェッリ展に駆け込む


見なくてもいいと思っていたが、フィレンツェに行っても、これだけまとまって見れるわけではないし、と思い直し、終了前日の昨日、家内同伴で駆け込んだ。
すごい人の波。おまけに上野公園の花見客との合流もあるのか、都美術館のレストランも、40〜1時間も待つほど。
ボッティチェッリは師匠やその息子の間に立ってフィレンツェ画壇を引っ張ってきたが、やはり色も空気も女性像も一番輝いている。高価なコバルト・ブルーの絵具、ラピスラズリなども使えたようだから、この時代でさえ経済的な裕福さが「業績」に影響したのか、という想いに捕らわれてしまう。
頂点に立つ「プリマヴェーラ(春)」に描かれた乙女たちのイメージベースになるようなデッサンや描画が所々に出てきており、人生において、それほど自己変革のある画業ではなかったことが思われる。絵画がキリストにまつわる処々の解説のためにあった時代だから、もっともなことだと思うが、幸せな時代だったことが想定される。


と、ここまでは一般的で個人的な感想の話。

ボッティチェッリは確かにロレンツォ豪華王(コジモ・メディチの孫)の全面的な庇護を受けて大成功したが、それもロレンツォが生きていた間のこと。1492年に彼が死ぬと(ボッティチェッリ47歳前後)メディチ家は途端に崩壊。息子ピエロには政治力が全くなかったようだ。これにはドミニコ会修道僧サヴォナローラの反メディチ運動のせいもある。中世イタリア版中国「文化革命」のようなもので、どういうわけかボッティチェッリはこの運動に心酔してしまったようだ。
ここからは中野京子氏の言葉を引用する。
「(ボッティチェッリは)サヴォナローラの言う『肉欲の美を煽った画家や文学者は悪魔の手先』という言葉を忘れなかった……彼はもはや見る者の感覚を楽しませようとはせず、教化を目的に絵を描いた。人物の身体は生硬となり、色彩の艶は褪せ、官能は雲散霧消し……ボッティチェッリの人気は急速に落ちていった。……サヴォナローラの処刑の12年後、貧窮のうちに死ぬ」。それは1510年だった。(「『絶筆』で人間を読む」NHK出版新書:点線部中略)


ああ、歴史に残るようないい仕事をするには、強大な庇護が要る。創作想像に金銭は関係ない(才能があってカネが使えればいい形になるし、カネが無ければ、いいものが生めても理想的な形にならない可能性が高い。生まれて育ち持った個人の想像力そのものに変わりはない)。
ボッティチェッリにしてみれば時代の偶然に才能が結びついたということで、歴史意識や、作品の販売方法などを考えたことも無かっただろう。本人の努力だけで人類史に残るような仕事が出来る訳がない。(もちろん、例外はある)。「ヴィーナスの誕生」は彼の死後、400年もの間、忘れられていたそうだ。