B@個人より全員かIDEOの考え方

【大きな構想】



個人より全体の方が正しいか


本題に入る前に、ちょっと前触れの話がある。


プロダクト・デザインという職業分野は、モノを作って売って対価を稼ぐ経済活動の過程で、技術や情報伝達が進歩し、より市場が拡大し、消費者のニーズが複雑多様になり出して生まれたものだ。


もっとも生まれるきっかけを作ったのは、折からの新しい抽象芸術概念の実践的展開先として、そういう市場に出廻る商品群や街並み空間を相手に表現の活路を見出した、当時の美術評論家や芸術家自身である。そこに「産業美術」と言い得るような、ある不思議な野合がある。


それでも受け入れられてみると、当初は抽象芸術家の美意識の反映でよかったわけだが、段々とそうは行かなくなった。
つまりプロダクト・デザインは、企業側から見れば、最初から、市場のニーズ判断によらないでモノを作れば、簡単に企業を潰すという前提条件を承知してもらった上で、このような職業主張者にサポート役を任せたはずのものだった。


だから現代では、新しいニーズや、市場の新開拓のような新商品企画目的の視野を持てば、当然、芸術家個人の感情移入などをまずは相手にしていられなくなる。
個人の感情や判断に頼るより、最大マスの人々の判断を抽出する方が、はるかに市場の動向に的確に対応出来ると考えられるわけだ。
そこで、日本でも知られたデザイン会社である、IDEOのデザイナー社長ティム・ブラウンが次のような、彼の言う好きな格言を取り上げるのはもっともなことなのだ。


「いかなる個人よりも全員の方が賢い」
(「デザイン思考が世界を変える」p300 千葉敏生訳 早川新書)


ある意味で、当然だろう。「三人寄れば文殊の知恵」ということわざだって昔からあるからだ。だからこそ全員合意、あるいは多数決という近代的な考えも出てきたわけだし。
ただ、「ある意味で」と言ったのは、創意工夫のある個人よりも、凡庸な全員の方が賢いのか、という疑問が生じるからだ。
そもそも「いかなる個人よりも全員の方が賢い」というのは、このような個人の持つ創造力度や凡庸度の差があっても、それが全員の賢さ、判断力には関係しない、という前提に疑いなく立っている。
「いかなる個人よりも」全員の方が好き、と言い切ってしまうところが凄いが、そこにはブラウンが気がついていないか、意識的に言及していない含みがある。


それはまず、このような考え方そのものが、ある経済システムの上で可能だということの確認である。
例えば、株式会社の形態を取って、それなりの方向性の合った知的レベルの人材を集め、ヘッドが全体の方向付けをし、それなりの給料を払い、人事管理をし、税金の申告をした組織上での、「全員の方が賢い」ということである。
なぜなら、彼が主張するような「デザイン思考」という概念に沿った「賢さ」を求めるなら、問題無く入って来れる知的レベルの人材抜きには、このことの実現は難しいからだ。
そうなると、このような経済システムを創れるかどうかが、「全体の方が正しい」とするために先行する問題になってしまう。


プラグマティズムの国アメリカならでは、建築家フランク・ロイド・ライトやデザイナー・チャールズ・イームズの後継と自任しつつ、「全員の方が賢い」と気兼ねなく言え、周囲もそれをおかしいとは思わない風土があるのかも知れない。
だからこそ、こういう言い方でも企業組織化出来、人材も集まるのかも知れない。
しかし、日本の建築家やデザイナーの場合、こうはいかない。もちろん本人の能力もあるかも知れないが、自ら企業組織化するのには周囲が、知名度、肩書き、資金力、従業員数、関連会社、人脈、前例などに頼り過ぎ、既定のハードルが高すぎる。一方、心ある作家たちはこういう分野に馳せ参じたデザイナーを、営業マン化したとみてしまう。

ところでこの優秀な企業人の組織体は、と見渡すと、日本の企業こそがぴったりなのがわかる。このことは、ブラウンの考え方は日本では問題なく受け入れられやすいことを意味している。、事実、彼の会社のクライアントに日本の企業が沢山は入っている。


次に、彼自身の経験から、これまでデザイナーの足をトカゲのしっぽのように引きずってきた、およそ造形感覚的な美意識からの決別が絶対正しいとする考え方が持つ問題である。(この考察は後に譲る)
ブラウンはそれらのことに触れていないようだ。