BDHK@日本のデザイン建築設計者よ、立ちあがれ

【大きな構想】


review:2015/03/03
リビュー時点でのコメント:大筋で現在の考えと変わっていない。変わっているとすれば、5年の間に、ここに書いたような純情な想いは消えているということだ。基本的には自分の直接行動に頼るしかない。言っていれば誰かがやってくれるなどということは一切ない。




「ヒナ鳥を殺すな」
創造者擁護論―日本のデザイン・築設計者よ、立ちあがれ!



多分これが、一番端的な主張のタイトルになろうかと思われる。

ここで言おうとしていることは、この国のプロダクト・デザイナー、建築家にとって、この国がもっと住みやすい国になってほしい、という願いである。

一職分の勝手な主張、と思われるかも知れない。
しかし、よく見て頂くと、この国の未来について重要な知識と実務経験を持っっていながら、社会ではよく見えない職能集団の問題がここにあるということが判ってくると思う。


簡単に言ってこれまでこの国は、大学教員のような職分でない限り、知識、特に経験的知識を持つ者にカネを払う体質が無さ過ぎた。そのうちの一つ、しかも国家的な見地から正当な評価が求められる分野が、このデザイン建築設計者のうごめく部分なのだ。


具体的な話の方が早い。
例えばあなたが今、レストランで食事をしたとする。その際、たとえ味や雰囲気が満足できなくても、「その場の」代金を払わないなどということは考えないだろう。
では住宅を建てようとするときはどうか。「出来た時」はもちろん払うだろうが、図面をいろいろ作ってもらい説明を受け、自分の意見も言った後、途中で止めたときはどうするか。
話を聞いただけだし建たなかったのだから、払う必要はないと思っている人は意外と多いのではないか。
ここに本論の問題とする部分がある。


専門的にはもっとずっと、根が深く、ささくれだっている。
組織化出来たところは、この国の国民体質を読み込んで、「建てさせてくれれば設計はサービスします」という立場に流れる。
国も「創造事業する個人」などは相手にしていないから(というよりそういう存在を知らないから、という方が正しいかも知れない)、それでいいと思っている。立法の視点は個人としては「国民の安心、安全」であり、事業者としては組織化出来たところしか考えていない(というよりそれしか思いつかない。というよりそうでないと安心、安全は保てないという立場だろう)。
「創造的設計者と称する側」もこれに対応して、悪くなるか逃げ出している。
実力以上に嘘をついたり、出来るところに丸投げしたり、辞めてしまったり、外国の仕事しかしなかったり、というわけだ。


当面、創造的設計者のための救済方法はない。
個人的に積み上げた信頼関係を育てるしかないが、これとて実に脆いものでしかないことを最近体験している。
「いい仕事」をしていれば」判ってくれるというのは、そもそもこの国では何がいい仕事なのかが判らないので、組織やブランドに頼ってきたという事実を忘れてしまった考え方なのだ。


それでも「いい仕事」(感覚的に、や美学的にではなく、経験に裏打ちされ論理的にも考えられている)をするしかない創造家は、食えなくても、判ってくれる人たちが出てくるまで、自分のやり方で押し通すしかない。
建築家も、プロダクト・デザイナーでも、こういう立場の者たちだけが集まって組織化するのでなければ意味がない時代になっている。


必要なのは、国家的な創造性事業へのサポート体制である。これはデザイン・建築にとどまらないだろう。映画、演劇、アニメ、マンガ、音楽、クラフト(手工芸)などで、伝統芸術や芸能・国技の維持継承ではない、新しい創造活動の事業化をもくろむ個人への必要な手立ての提供である。