池邊陽を分析する

【論・情報】



独断で、池邊陽(いけべ・きよし)を裁断してみる。


昨夜、建築家・池邊陽についてのシンポジウムがあった(JIA都市デザイン部会)。
と言っても、今や、誰のことかわからない人も多いのではないかと思う。


1920年大正9年)釜山の生れ。昭和15年に東大工学部建築科に入学。1949年(昭和29年)には、29才の若さで同大学第二工学部助教授、45才(1965、昭和40年)の時に、生産技術研究所教授になっている。
つまり、先ずのキーは、東大工学部の人(簡単にそう言うが、実はこれが大変重いものを持っていることが最近ますます実感され出した。少なくとも高度成長期の終りまでは。簡単に言うと、日本の建築界を、基本を土木工学技術のものとし、添え花のようにスター建築家を生んだが日本の土壌を無視したものだった)。次に、第二次世界大戦を挟んで青春を送っていること(開戦は昭和16年12月8日。終戦は昭和20年8月15日。日本人の価値観が180度変わった)。


基調講演に、その教え子だった難波和彦氏(建築家)、娘さんの池邊このみ氏(ランドスケープ・プランナー)があって、うんちくのある話が聞けて大変、満足した。
池邊陽については、僕にとっては何がなんだかわからないが非常に近い人、という印象の一方、とても喰いつけない人、との相反したイメージがあって一貫した人間像になっていなかった。
それで、どこかで納得しておきたいという気持があったのだ。
それが、独断を許してもらえれば、一応氷解したという気になった。


ここでは仕事の内容やその業績について説明している気持の余裕がない。
自分のこれまでの理解を一言だけ言えば、建築と都市を工業材料を駆使して工業生産のものとして、空間を再構成しようとしたもの、となる。
これがまさしく、自分の出自である工業デザイン(ID)的なのだ。


やってることはあらゆる実験的設計生産行為であり、一生懸命、感覚に流れるのを抑えておきたい衝動にかられてつっぱしってきたという印象なのである。


難波氏は「池邊先生は、敗戦を契機として、それまでの美学的な解決に逃げた過去を反省して、そちらに行くのは危ないと感じたのではないか」(聞き取り意訳)ということを言ったが、その辺りに、池邊陽の見えるもの(建築作品)の意外な美学性と、そこに相反する論理的な帰結への依存性の説明根拠があるのではないか。


奇しくも、アンジェロ・マンジャロッティ(*)との親交関係があったらしく、こうなるとこの矛盾はますます僕の整理領域に入ってきた。
学生時代だったろうか、IDから建築をやれないかと考えていた時、頭に有ったのが池邊陽だった。一度ならずとも門を叩こうかとも思ったが、論理的に自分の思いを説明できるわけもなく、またどこかどんどん展開するが、視覚的に(美学的に)統一してなくて拡散するばかりのようにも見え、さらには数列やチャートでの説明について行けなかったりして取りつくシマが無かった、というのが本音だった。


ちょっと穿った見方かも知れないが、そして池邊このみさんの視線があるかも知れない前で言うのは気持ちの揺れがあるが、更には難波和彦氏の池邊陽についての著書(「戦後モダニズム建築の極北」彰国社)もまだ読んでいない状態ではあるが、彼が建築の工業生産化を考えている時に常に頭にあったのが同じ大学の丹下健三ではなかったかと思えてならない。
丹下のようにはやりたくない。しかし、どうしても表現に美学が入ってしまう…。


ここには、東大工学部建築科というまったくの正道に乗った上で、国の要求、何でもやれそうな自己の才能とそれを許す時代背景、輸入文化としての個人的建築家像、競争相手のいる中での自分の位置取り、これらが一気に彼にせまってきたのではないかと思えてならない。
そして、なまじ能力があったばかりに、自己破壊してしまったようにも思えるのだ。
事実と言うべきか、私論を続ければ、彼は大きなプロジェクトが景気の変動か何かでストップしてから、朝から飲むような酒浸りとなり、59歳という若さで他界してしまったのだ。



* アンジェロ・マンジャロッティ : 拙著「デザイン力/デザイン心」でも取り上げたイタリアのモダニズム建築家で、工業生産技術を建築の軸に置こうとした。しかし、作品には「イタリアの風が吹いてた」。僕がイタリア行きを目指したのはマンジャロッティがいたからだった。

(想いが浮かべば、後日にまた談じたい)