ショパンの秘密に迫る

【日記】


「ピアノの詩人:ショパンのミステリー」―心から消え去らない調べ


Chopin, and my memory:



なぜか知らないが、ショパンのメロディーのことを書いておきたくなった。
金曜の真夜中に、上記タイトルのNHKプレミアム・アーカイブスを、偶然見た。どうしてもテレビを消せなかった。その前に「密着:秋元康2160時間」とかいう番組を途中から見て、これも止められなくなった後の番組だった。

ショパンを前にして、すこし通俗過ぎるかも知れないが、秋元にも、そのタフさ――見受けしたところ、ほとんど睡眠時間ゼロみたいな日程の日々。スタッフが歌詞の原稿が来るのを待ているのが夜中の2時、3時がざらのよう――を知らされ、驚嘆したが、すごい人たちがいるもんだね、という感想とともに、何でこんなに詰め日程で生きるのだろうというという素朴すぎる疑問も。自分だって切羽詰っていると思っているのに、人のことは判らない。



ショパンには泣ける思いだった。
自分の青春を思えば、その音楽は生の背景を流れる底流のように思っていた。ちょっとよく考えると、その音楽を聞くと感傷に流されるようで怖かったという心理でもあった。
ショパン?わかっているよ。だからどの曲でもよく、作品名や番号を覚えようとすることはなかった。


この番組は2006年とかに放映され、ピアニストの仲道郁代さんを伴った音楽行脚で、ワルシャワポーランド)やパリに秘密を探りに行く。むしろ可愛くさえ見える仲道さんの繊細な説明や演奏でショパンの姿が見えてくるという案内。
例えば、左手は3拍子で、右手は4拍子で鍵盤に向かう演奏部分があり、これによって音の多様性を深めているとか、譜面には出版社によって違う記載があるのが複数あるとか(ショパン自身が初演から何度かに渡って考えを変えたため、ディミヌエンドがクレッシェンドになっていたり、フォルテがフォルテッシモになっていたりといった)、現在のピアノは大聴衆を集めての演奏のため、ピアノ自体が、ショパンが自分で弾いて樂譜に向かったようなピアノとは大きく違う、などなど教わることも多かった。


1830年11月にワルシャワがロシア軍に攻め込まれ(11月蜂起)国外で演奏活動をしていたショパンは戻れなくなり、21才で、祖国を追われるようにして二度とポーランドには戻らなかったその短い人生が、音楽そのものにつて語るものは多いように思える。1849年、パリで病没。39才だった。
このことも、ジョルジュ・サンドとの恋も含め、あまりにも知られていることか。
ただどうして、あのようなスラブ的とでも言うのか、哀愁に満ちた音楽になったのかについてははっきりした指摘はなかった。いくら祖国を想い、病弱の身であることによって生まれた音楽であることは判っていても。


デザイナーのために付記すると、彼の最晩年には写真が撮られている。(ダゲールの「ダゲレオタイプ」が完成したのが1837年だった)
この時代に科学の成果が目を出し始めていたことを示す例だろう。ロンドンの大博覧会で、鉄とガラスの水晶宮が大きな話題になったのが1851年だった。産業革命の成果として、モダンデザインの最初の成果が見え始めた時である。ショパンはそういう時代の鼓動を聞きつつこの世を去った。そういう文化の大変革の予感におののいて、という気持ちもあったのだろうか。



音楽は言葉では語りつくせない。放映も、実験実演や仲道郁代の演奏会といったシーンで、ショパンの音楽がついて廻るから納得できてしまう、そういう番組だった。