地域への目とデザインへの想い

【論】


デザイン概念の拡大の中で

In the spread of conception of design: how does it works the regional community design ?



新聞記事にめずらしくデザイナーが出た。
「四万十(高知県)だけでなく全国で価値観が東京の方を向いています。『国にハコモノを造ってもらう』という考え方に豊かさはあるのか。知恵を使って自分たちの新しい価値を生み出す喜びが地方には乏しいのではないか」
「それぞれの地域の個性を認識しあって、それぞれの土地の個性をいいねと言い合える日本にしたい」
「デザインの役目とは、社会構想と問題解決だと考える。
『震災に対してデザインが何もできないなんてありえない』。プロジェクトをデザイナーの『使命』だと思う」(梅原真・朝日新聞3/2フロントランナー)



この40年あまり、デザインという言葉に振り回されてきた。
地域活動がデザインであるとの自覚は、3・11の後急速に高まっている。
しかしはっきり言って、論旨はよくわかるが、実務上、自分の考えになっているかと言えば、そんな気持ちになり切れていない。


残念だが、ここは美しい四万十川の流域ではない。都心のど真ん中で、ほとんどすべてが人工物の世界だし、マンション族は地域住民とは関わらない。「東京の方を向き過ぎて」いようが、いまいが、対象は抽象的で複雑怪奇だ。
こんなところで何をやるのかは、全く独自に考えなければならない。
誰かが言っていたが、東京ではどうしても、世界にないもの、まだ誰も見たことが無いようなものを生みだしていくしかないというのは実感として感じる。




話は飛ぶが、まったくの偶然で見た、ちらりTVシーンからの連想を追う。
石原(ヨシズミと言ったと思う。慎太郎一家の一人)が逗子か葉山の海岸で、工事用スコップで波打ち際との境界線を意味もなく掘る楽しみをしゃべり、最近出ずっぱりのあの太った女(男:後記―マツコ・デラックス)が「なにかわかる気がするゥ〜」と、気違いのように大笑いするシーン。
散歩の一環ということで、掘っては飽きると先へ進み、適当な時間をおいて戻ってくると、この堀った孔は波にほとんど消されている。これが又いい、などとヨシズミが一見、大まじめで言ってまた大笑い。そばにいるもう一人の出演者は笑い転げて涙目に。

もう一つは、加山雄三が東京の下町を歩いて、七宝職人やペンダント用堅木に好みの文字を透かし切りする職人を訪ねるシーン。



TVも本当にやることが無くなって来ているんだな、という実感はあるが、地域の個人に目が行くようになったことは褒めたい。それはともかく、まず下町シーンだが、職業的にこういう職人的な仕事を見ていると、石原の「無意味なスコップ掘り」との差が妙に意識される。
なぜなら、僕らにありそうなのは、職人根性から言うと絶対に下町職人の心況だろうが,でも僕には海岸のスコップ掘りの無意味さが妙にリアルに思えてならないからだ。
つまり今のデザインのあり方、デザイナーの生き様は、時代のつかまえ所のない空虚さの中では、それが東京のようなところで生きていればなおさら、ずっとスコップ掘りの方が現実味を帯びているように見えるということだ。
そのことが四万十の思いとは全くちがう方向への心象をもたらすことにも繋がっている。

どういうことか。つまり日本の変革は、まず「デザインの役目とは、社会構想と問題解決だと考える」で合っているが、その行為の対象は、地域社会に根付いていくものと、産業構造のシステム変革への働きかけ(で弱ければ、戦い)に二分されていくのではないか。そういう意味では「グローカル・デザイン」を、シンク・グローバリィ・アクト・ローカリィと訳すと、間違いやすいことにもなるだろう。
かと言って、後者の場合、じゃあ何をするのかと言われれば具体的な指標が見えないのだが…政治家になって、というのでもないならば。