日本男性は、世界でも珍しいほど、「文化」に触れない

【日記】 2014/6/10  2015/2/23


それはどうしてなのか、深慮の必要あり。



昨日、5月31日の朝日新聞「デジタルの落とし穴」(耕論)読みましたか。


美輪明宏が面白いことを言っていた。
「日本男性は、世界でも珍しいほど、音楽や美術、演劇など「文化」に触れません」
「戦後、経済成長一本やりで、効率だけを追求し、文化は無駄なものだと考えてきたからでしょうか」と続く。


美輪はバロックを褒め称え、バウハウスがまちを、社会を味気ないものにしたと言ってのける。そこには大いに違和感を抱かせるものがあるが、言ってのけるところが凄い。その勢いと同じに、日本男性を切って捨てたのだ。
これは「アナログの無駄こそ文化」というタイトルで語られていた記事の一節で、ある意味で、とても共感を持った。


ある意味で、というのは、早くから女装をはじめ (僕の学生時代に、間借りしていた家の奥さんが、銀座で美輪の演技を見て、「女でも惚れるような妖しい魅力」と言っていた)、オネエ文化とでも言える風俗の先駆けとなったこと自体が凄いことで、あえて言えば、大きな社会変動を潜り抜けてきた、50年に及ぶと思われる「変装からの日本社会観察」が、独特の日本文化観を持つようになったに違いないと思えるからだ。
日本人が、一般に一様な価値観に閉じ込められてきた中で、美輪は完全にアウトサイダーだったわけだから、そこに溜め込まれた思いや憂いはただ事ではないと思える。
去年の大晦日紅白歌合戦に、舞台も衣装も真っ黒にして「ヨイトマケの唄」を歌ったとか聞いたが、言葉の理屈ではなく実演を通して、庶民レベルでの文化的説得効果を持つとなったら、美輪を置いて他にいないのではないか、という気さえしてくる。


それにしても、「日本男性は、世界でも珍しいほど、音楽や美術、演劇など「文化」に触れません」
という言葉は決定的だ。経済ばかり追いかけた戦後ももっともだし、教育に文化を愛でるような教え方も無かった。個々の日本人は意外と感性深かったりするのだが、組織となるとどうもそうではない。
それにつけても思い出すのが、ユーロに加わる前のイタリア紙幣の肖像が、ダ・ヴィンチミケランジェロヴェルディといった芸術家だったことだ。
僕が「建築家だ」、と言うと(その当時、ミラノではプロダクト系デザイナーという職分への一般理解は無かった)、近所の自動車修理屋が最敬礼してくれたことも思い出す。
考えても見よう。日本では文化人というと、樋口一葉森鴎外。文学の世界だ。黒田清輝から横山大観でもいいが美術の人間が描かれたことはあったのか。もっと言えば、伊藤忠太でも吉田五十八でもいい(二人とも建築家)。紙幣に載る事を考えてみよう。そういうことが興るだけで、日本人の価値観に驚天動地の変化があることがわかる。そういうことはまず考えられない現状だ。
「日本男性は、世界でも珍しいほど、音楽や美術、演劇など「文化」に触れません」