半谷良男さん、安藤忠雄さん展を見る

Try to find the real meaning of social architect by overview of "Exhibition of Tadao Ando"



連休ということもあり昨日に続き、知人の建築家、半谷(はんがい)良男さんの水彩画展を京橋で見て、続いて「安藤忠雄」展を見た。


半谷さんの絵は手馴れていて、だいたい描き上げるのに3時間ほどだそうだ。去年はシチリア、今年はスペインとグループの写生旅行に参加して描いている。それらを含め、年間100枚くらい描くそうで、それらの内の30〜40点が紹介された。
みずみずしさに光と影が溢れ、特に水辺や建物の影が美しい。上手いし、いい絵である。空間(平面)を緊迫させるための手法も心得ている。
「建築設計にまつわる施主とのクレーム問題などが一切なく、こんなに満足する仕事があるのかと思った」そうで、まったくその気持ちはよく判る。美大の建築科出かと思ったら工学部系だそうだ。こうなると出身学部・学科は関係なさそうだ。そういえば安藤忠雄さんも学歴はいわば「無所属」だ。



安藤忠雄」展は、その展覧会が国立新美術館であることからも、一変して社会的視野が含まれた意見となろう。
以前、彼について普段感じている以上に厳しい感想を述べたことがあった(2014年1月25日付け当ブログ:「安藤忠雄さんの功罪、というより期待したこと」)。でも、今度の展覧会を見ても、その時と基本的に考えが変わっているわけではない。
ただ無意味な反発ではないためにも、この展覧会で見せた膨大な設計業務への敬意を表さない者ではない。
感心したのは、青春時代に世界中を廻っていた時に、必ず小さな風景スケッチ・メモを描いていたようで、その画帳が展示されていたこと。達者で上手い。
比較するのも僭越だが、自分がいた約10年のイタリア時代に、あちこち旅行してもほとんどスケッチもしていない。住んでいてつきあいで描いたのが5、6枚といったところ。絵は描きすぎている。描く事はいつまでも美大メンタルに留まっていることだ、との自負があったからだ。
その点、安藤氏は素直であり、その後も、設計した(する)建築物の断面や平面を画像化し、「作品」と思わせるような努力をしている。
彼の仕事が「挑戦」という本展テーマが示すように、どんなことでもやってやる式の力強さとボリュームがあり、その力量には感心させられる(何十人かの協力スタッフによる模型作りや図面制作、事務所としての大きな資金提供などの想定を含む)。見せる展覧会としては出来る限りのことをやったのだろう。個々の作品には、いいところ、見所、美しいところなどいろいろあり、それらを自分の視点で解説していたらそれだけで一書になるだろう。また、「植樹・グリーン化への努力や愛」も大きく、その意味でも社会貢献への努力は無視できない。
展示「作品」を通視して感じたのは、この人は初期から一貫して設計方針が変わっていないということ。「住吉の長屋」「光の協会」辺りにすべての原点が集約されているという印象なのだ (「光の協会」は祭壇部を中心に、原寸大で屋外展示場に再現。壁面はコンクリート打ち放し―以下RC―の大版ブロックを積み上げたようだ。「本物を造った時よりコストが掛かった」との本人の弁)。RC打ち放しへのこだわりが基本ということか、それが与える空間への多面な人間心理などは気にもせずとの感があり、造形意識が強く実にシンプルなものだ。これに長階段や反射水面、柱列、RCの非情さに対比させる深い緑(自然との共生)などを、出来るだけ単純な直線、丸、三角、四角の平面や開口部を並列したり交錯して設けることで空間を形成する、という流儀のようだ。それだけに人間が感ずる空間の微妙な質については不明なことがある。
これらが可能なのは、身も蓋もないことを言えば、これらの展開を許すクライアントがいて、それを可能にする地形や工事費があったからだと言えるだろう。その意味では、夢中の努力を実らす、素晴らしく恵まれた運命にあった人だと言えよう。
それにしても、 「(自分の)内臓にはほとんど臓器がないが、仕事に支障はない。あと20年は続けるつもり。エネルギーの源泉は好奇心」とも言っている(週刊朝日10/13号、山本朋史記者取材)。 驚異の体力であることは間違いない。 やれるだけやってください。


展覧会評価はこれで終りだ。
安藤忠雄さんの功罪、というより期待したこと」との、かってのブログで言いたかったことは、この業績や体力のことではない。体を気遣えば、おのずと遠慮しがちになるが、敢えて言おう。
建築家の世界も、産業経済界と同じで「一強九弱」の方向に向かっている。建築家も前(公社)日本建築家協会々長の芦原太郎さんの言葉を借りれば、「スター」を生み出したが、それとは別にやることがある、となる。
安藤さんは言ってみれば「終わったはずの巨匠時代の建築家像史に乗り込もうとする最後の男」とも読めるのだ。そうなれば同類は邪魔になる?
今の(日本の)市場は建築家の生存力をどんどん切り取っている。同じような才能を持ちながら、法規はもとより、クライアントに虐められ、コストや日程、性能で追い詰められ、その一方で明日は仕事があるかどうか判らない建築家でいっぱいになっている。他方で、「スター」のところには100件どころではない注文が来る。
「スター」は社会の華であり、その存在によって「その方面にも日本人の誇れるもの(人財、文化など)がある」という合意の旗印となっている。建築家の側にも「スター」が居てくれるおかげで、我々の社会的存在感が保たれている、と感じている者もいるはずだ。でも社会一般は、その下に息絶え絶えの同業者が溢れていること、建築家希望の大学生などがどんどん減っていることなどには関心がない。「スター」が巨匠の歴史に組み込まれようとして配下を無視すれば、社会はそれをそのまま受け取るかもしれない。しかし、アマゾンやグーグルをこのまま勝手にさせておいてはいけないだろうと同じように、今の社会にはある種の調整機構が必要なのだ。当然、安藤さんはそのことには言及しないし努力はしない。もちろん、彼(だけ)の責任ではない。結果として彼の「挑戦」は、個人的な名誉のためであり、建築設計職能領域の社会的基盤の形成に資するためでは無くなっている、と言えないか。
もっと問題なのが、「弱肉強食のこの世界では生き残った者だけが正しいのであって、それをサポートしていればいいんだ」 という社会合意の切り札にされかねないことだ。こうしてメディアも知識層も問題の本質を見ないで安穏とすることになる点である。


会場には中国人などかなりの外国人がいた。国情からも、精神文化的な大変革時代の世界の最前線にいるわけではないかもしれない分野を持つ国の人々にとっては、安藤さんは憧れの巨人に見えるだろう。これが我が国の建築家世界の現情だと思われたら大間違いだ、と言いたくなる。





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