CG化の躊躇

宮崎駿の近況を伝えるテレビ番組があった。(「宮崎駿は終わらない」NHKBS1:2017/1/29)


「うーん、どうしても紙を探しちゃう」
スターウォーズなんかと全然違うことをやっているからねえ」
「(スターウォーズがやりたいような)毛虫はいやだよ」
「面白いことは人にやらせないという…(自分勝手な強欲があるからなんだが…)」
「映画が出来ちゃった時に、情けない気持ちにならないように…」


以上は番組の中で宮崎が、うめくように発した言葉の一部だ。
自分がCG(コンピュータ・グラフィックス)制作をしないから、宮崎の気持ちに添うような内容だったが、実際に、トップ若手CGクリエイターたちの提案で新企画を始めてみたところ、どうしても思うようにはいかない現場に出会い、ため息をつくところから発している。
毛虫の動き方が自分の指示したものとどうも違い、提案されたCGだとどうも気に食わない、と言うのだ。何度やっても自分の思い通りにはならない。手描きコンテを何枚も渡し頼むが、毛虫の波動が気に食わない。宮崎も申し訳ない気持ちになるだろうし、ここまで手書きコンテを渡すならこれまでと同じ。いや、それをコンピュータ・クリエイターに説明しているだけ時間の無駄という気になってしまうということだろう。
これは現状レベルのCGワークに乗り遅れた我々世代共通の苦渋ではないか。


一部には、宮崎がここまでこだわるのがわからないという反応もあるだろう。
番組で見る限り毛虫は十分、見事に動いているようにも見える。普通にはここでOKを出して、ストーリー展開などでドラマ性を盛り上げるほうに向かうのだと思われる。
微妙な毛虫の動きに中に、ユーモラスな感情や毛虫に込めた作者の思いが出ていなければ、いつまでやっても満足しない、ということだろう。
これまで見てきた宮崎アニメ映画に感じていた、とてつもないヒューマニティのようなものが、こういう努力の上で表現できたのだとすれば、CG制作の方法にはまだまだ課題があるということになる。
このような高度の画像制作でなく我々のCGやCAD(コンピュータ制作図面)制作でも、自分が手を動かしていじり回すのでなく、データをぶち込んでそれが可能な範囲での可動制作となると、何か見落としがあることが予感される。ここには感覚の操作でなく、作動機能の読み込みという前座作業があり、この段階で本当にやりたい事がぼけてくる(反対に新しい発見があり選択性が広がることもあるが)ような気もする。宮崎もやりたいことが、CG操作に頼った人手(CGワーカー=CGW)でワン・クッションあるだけでイラついてしまうのだろう。出来た画像を修正するのも、またCGWでしか出来ないのだ。CADで感じた、空間の全体把握を体感しないでこの世界に入った場合はどうなるのか、という類推に繋がっている。
番組は、タイトル通りの「宮崎駿は終わらない」状況紹介で終わっている。


「もう長編アニメ映画は創りません」との、事実上の正式引退表明があってから2年ぐらい経つか。あれは、手書き画像の組み合わせにこだわるこれまでの制作方法が、コスト、労力などの点で完全にアップ、アップの状態になっていることへの危機感からの引退発表だった。
事実、世界のアニメ市場は完全にCG制作に移っていている。
それでも宮崎は「手を動かして」創作することを止められない。
何を宮崎はCGへの移行を躊躇するのか。その辺の事情を観察できる番組だった。
(敬称略)








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