消滅か更生か
4/28〜30: 補記・追記・修正あり
「なぎ」の木のある家との別れ
一体、どう納得したのか。
我ながら不思議な気持ちだ。
十分、覚悟したはずなのに。
親から引き継いだ家と土地を売却することになり、明日、決済日だというのに、心が揺れている。
売却を決めて片付け始めてから、6か月半かかった。
小田原へ通った回数は、20回ほどにもなるか。(そのわけは、当ブログ4月7日「こんなもの見ちゃうとね」をご参照)
もともと自分の設計した家ではない。昭和初期の古民家である。
でも高校時代に、プランを立て親の了解を得たかどうかも分からずに、大工の協力もあり、やりたい放題の大改修をしたが、結果的に大正解。玄関からの40㎝以上の上がり框を生かし、増築した8畳の和風洋間を中段に設け、徐々に和室に上がれるようにした。トイレは通路の外側に設け、音が響かないようにし、この通路で自分の勉強部屋を通して家の中が廻れるようにした。アルミサッシがはやり出していたが、和風に不可欠と思っていた複雑な木建具を全部生かした。平屋を活かし、拡張した縁側やトイレや通路にトップライトを設けた。「なぎ」という北限の、珍しい樹木の列は一切切らずにプラン上、逃げた。自分も設置に加担した石畳の前庭に、父親が3つも小さい石灯篭を備えた、流れる小池のある裏庭がつく。庭が好きでよく整備していた。
和の空間を把握した時代だった。
親もこれでいいと言い、この時から自分の建築設計能力に、関心とある種の自信を持つことになった。
なぜ、ストレートに建築科に進まなかったのか。
周りに情報をくれる人が、誰もいなかった。わずかな情報は建築雑誌。ところが丹下と川添の日本伝統論争などが大きな話題で、これが建築家なら僕なんかとてもできない、と思い込ませた。しかもまちで偶然会った建築家と称するおじさんに、「どう勉強するのですか?」と聞いたら、「数学をやっておけ」だって。5教科8科目の受験コースに居ながら、数1が苦手で、このため東大は無理 (ストレートでは) と言われていたことも手伝った。小中で絵ばかり描いていて理系が弱く、地方の受験高校で美術部長だったような生徒が東大工学部受験? それは無理でしょ。ところが、 ぎりぎり土壇場で芸大(工芸科だが倍率32倍)に変えたら受かってしまい、一見、問題解消。高校の担任教師らにはびっくりされたが、当然、悩みは消えないどころか激増。(この話はデザイナーへの転身も含めて、自著「デザイン力|デザイン心」(美術出版社)の、「内向き少年の苦節―「デザイン」を教えていない中学・高校」の章で詳述している。調べ直したら、おじさんに会ったのは中1だった)
もっとも今では、周囲の人間関係を見渡して、自分の才能を大切にして真剣に道を探し、勝手に人生を制限してはいけない、と承知するとともに、いかに環境情報や人脈が人生の進路に影響するかを実感している。若者には、このことを教えなければならない。そこには、個人の才能を活かすのとは別な、既存社会が持つ偏向した価値構造というハードルがあることも事実で、更にそれに一生の戦いを挑むことになった。つまり、市場の職業における感性と論理性の融合評価問題である。
だいぶ横道にそれたが、こうして、出たり入ったり60年も関わった家となると、単純な愛着問題ではない。
この家に住み、アトリエ兼ギャラリーにするつもりだったのだ。
なぜ、売却を覚悟したのか。直近にカネが必要だったわけではないのに。しかも小田原は品川から新幹線で31分だ。朝夕の静けさは例えようもない。いろいろな小鳥が来てさえずり渡る。「なぎ」の木以外にも樹木がよく育ってくれた。海も漁港も近く、歩いて10分以内。だから荒れた日の波の音が聴こえる。
振り返ってみると、木造の建築限界と耐震改修の必要性、その前に来るかもしれない地震津波の心配、それより経済的な時代観が黒雲のように広がってきたことが大きいということが判る。それに、結果的に10年近くもお婆ちゃんに貸したことも問題だった。それに家族の意識。そして、その全体に負けた自分がいる。
こんなこと書いている余裕はないだろう?、というのが背中に押し掛かる圧力だが、定まらない心情がどうしても書く方に気持ちを揺さぶる。 傍迷惑な気休めの自己弁護かもしれないが・・・。
なぜ自分の設計で建て替えて人に貸す、という考えになれなかったのか?
そこには、投資への判断に迷った小心な自分が見えて来る。維持保存する方ばかりに心が動いたのだ。それに、土地に染み付いたのか、家族臭のようなものから逃れたかった? 更に、必要な設計理念のために、どんなに金を掛けても自分の信ずる住宅を建て、後はどうなっても仕方ない、という覚悟に到らなかった弱さがある。
社会的な観点からの経済的理由という、もっともな言い分から始める前に、まず言えそうなのが、自分の感性の劣化とでもいうものか。若ければ、あれをこうして、これをああしてと思うだけでやれそうな気がするのだろうが、もう先が無いとなると、感覚や気持ちでは動けなくなる。美しいから、懐かしいからと言って、それをサポートする体力もなくなる。それで結局、維持経費が出るかどうか、サポート役はいるのかどうかのお金の問題になっていく。お金は問題ないから気持ちの進む方にせよ、と自分に言い聞かせたところで、感性確保のために建て替えたり、現状維持する覚悟になれのないのだ。どうしても、今後と、自分の死後のことまで考えると、誰もサポートしてくれそうもない未来が見えてしまう。
その上で、専門家間の勝手な問題意識かもしれないが、現代ならではの設計理念的な解体の問題がある。簡単に言うと、まず和か、洋かという問題。普通にやっていると洋になるが、混合、あるいは融合となるとほとんど誰も成功していないようだ。もっともそれぞれ何百年かの歴史があるわけだから、一朝にはいかない。
和だけにもしたいが、いい素材を使えば天文学的な費用が掛かろう。かといって全く新しい造形空間となると、CADの進歩で驚くようなものが出来る。が、見え見えですぐ飽きられる。とても判断が難しい時代だ。
コストを掛けない道を探る小心
ヒトもモノも確実に劣化する。3分で出来たようなことが5分は掛かる。でも手伝いがいても、本当の決断は自分でしか出来ない(我々の職業が持つ、こだわりの面倒くささが関わっている面もあるのだろうが)。家もどんどんボロボロになる。
もし、それを維持するとしても、日常の強いメンテナンスが欠かせない。それは新築しても同じだろう。木造の室内は常時、磨いたり、拭いたりしなければ美しさが保てない。数年おきの改修、補修も必要。よく育つが、美しく保つための庭木の手入れだけで、年間15〜30万円は掛かる。
管理も兼ねて入居したお婆ちゃんとの最初の約束では、庭木はともかくも、家は美しく保ってくれるものと思っていたが違った。
窓ガラスは拭いたことがなく、キッチン・トイレ・床の間・本棚を含めたカウンターや棚類を磨いた様子もなく、障子の張替えもしなかった。虫が出ると殺虫剤を播き散らし、相談もなく猫を飼っていたようで、野良猫の出入りも許していたようだ。捨てなかった買い物の袋や段ボールもあちこちに詰め込まれていた。
この10年余りで見るも無残な古民家になっていたのだ。でもお婆ちゃんを攻め、責任をなすることはできない。彼女は彼女なりに必死に孤独を生きてきたのだろうから。
(お婆ちゃんに貸していたことについては、小田原市の幹部職員との縁があり、当方もNPO法人「日本デザイン協会」のイベント会場として活用するということで、特殊な契約をしていた。でもこの事業が滞るにつれ訪ねにくくなり、近年は連絡すると出なかったり、「明日は病院で、昼間は居ません」などと逃げられていた。市の人も「ちょっと長い間、放置しすぎた」と語っていた。事業としては最初の頃、何回かイベントを行っており、どこかの時点でこの成果をまとめておきたいと思っている)。
この家も、こうなってくると感性で美しい家を保存、などという勇気もくじけてくる。
売却を決定づけたのが、人口減少による地方の疲弊化(想定される空き家問題)と、それに伴う不動産価値の大幅下落だったのかもしれない。ぎりぎり東京オリンピックまで、とのメディアのせっつきが激しい。小田原までもか、と思われるだろうが、確実に地方劣化の影響は受けている。
ギャラリー以外にも、賃貸、観光としての古民家、シェアハウス、民泊……みんな考えた。
結論はどれも費用体効果が合わないか、設定条件の読みが浅そうということ。例えば民泊にすれば、自分が管理しない限り管理人任せとなり、いい加減になりそう。付近は静かな住宅地だからイタリア人と限定したって、夜中、出入りしてうるさいかもしれない。木造だけに火事の心配も尽きない。新築すれば採算が取れない。
深い袋小路だし、環境的にも決定的な「売り」がない。3000万掛けて新築かリニューアルする。で、どうするという答えが出なかった(設計して建てるだけでよければ今でもやりたいが)。
繰り返しだが、そこに住むことを考えていたわけだが、現状はまだ東京で動き回っており、引退して毎日、絵でも描いているという自分が想定できないのだ。居なくても維持管理費は掛かる。ギャラリーにでもするなら、予約制にしても管理人も必要かもしれない。でも誰が来てくれるのか。一時は市が管理に協力してくれるかもしれないとも思ったが、そんなはずはなかった。
そうこうしているうちにどんどん、時がたって行った。
つまり老化と劣化は必然に迫ってきた。
家内は当然、「あなたが(全部を)設計したのでもないのに価値があるの? 床の間の造りも格がないし、建物の素材も安ものだし…」「売値はどんどん下がるわよ。動けなくなったらどうするの」「別居する気なら別だけど(と言ったように思っているが)(私の住む)この(東京のあなたの造った)家はどうなるの? エレベーターも無いし、階段が上がれなくなったらどうしてくれるの?」というような、どこにでもあるような話題になってくる。至極、客観的で正当な意見だと言うしかない。
息子は平然と、「父さんが死んだら、あの家売るよ」
片付け中に見に来させたが、愛着など全く無いようだった。それは住んだこともないのだから無理もない。もっとも「ギャラリーにする」と言っていた頃には、「自分の家具作品などを、展示というより日常のインテリアとして使ってもらうような展示がいいよ」などと言ってはくれたが。自分の、親に対する態度を考えてみれば、子が親の意を継ぐはず、と勝手に考えるのは身勝手すぎるだろう。現代の価値観は大きく拡散している。これで、継続の可能性無し。
収入に大きな希望が持てなくなった今、自分の反発力や覇気が掻き消されていくような寂しさを、甘受したくなくとも受け入れざるを得なくなる。
ここにあるのは、やっぱりお金と名誉(聞えはいいが、正確には売名力あるいは知名度)に関わる問題なのだ。意のある建築家は反発するかもしれないが、今では完全に金権社会になっている。金がなければ人も組織も動かないし、当面の知名度が無ければ、支配階級(用語が古いがとりあえず)は問題ともしない。担当する不動産屋に相談することさえできなかった。これは文化の問題でもあろう。
とは言ったって、また余談になるが、現在の社会的知名度が、この価値体系の大変革期を経て誠に歴史的に評価、保証されるのか、判っている人がいるのだろうか。皆が同じ教育を受けて創っている同質の日本社会で価値判断して来ている以上、意味もないのかもしれないのだ。逆に言うと、新しい社会提案を評価する人も、それを受け入れるシステムも未成熟なまま、ということだろう。
さらに、皆が「私を忘れないで」とばかり、ネット・メディアで騒いでいる以上、それが悪いか悪くないかも越えて、評価の拡散もこれを追い打ちする。その上で、もし自分が評価されていると思っても、死と永遠には対抗できない。
それでも、自分が世俗的な経済力や家族の安定のために、「創る本心」に賭けることを捨てたことは認めなければならない。少なくとも本件に関しては。
今になって、心を豊かにしてくれた同胞を失うような気持でいっぱいだが、いつかは来る消滅を覚悟しなければならない。悲しいが、古いもの、過去の想いに囚われていては雁字搦めとなり身動きが出来ない、と、わが身に言い聞かせるしかない。
平穏を祈って、重荷を捨てたシンプルな生活を目指そうと願う。
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