この国では、自分のことしか考えないのは悪いか

この国では、自分のことしか考えないのは悪いか

仮に、言ったのは家内だとしてみよう。
「あなたは自分のことしか考えない。自分にしか興味が無いんだ」と言われたらどうする?
これは現実には、家族や身内のことを放り出して、自分勝手を働き、家族を離反させ、場合によっては路頭に迷わせる男という意味も含んでいる。
僕が小・中学生のころ、父親はよく「人という字は二本の棒(人)が支えあって出来ている。これをみてもわかるだろう。人は一人じゃ生きていけないんだ」と言っていた。僕はひたすら心の中で、これに反発していた。まず自分が問題じゃないかと。
自分捜しに夢中になるということは、どうもこの国では歩が悪い。しかし、そう言うだけで済むことか。

断りきれずにというか、自分から進んでと言うべきか、例えば先週土曜日の午後は、東大で行なわれた建築家協会の「東京地域会連絡会議」に出席した。3月3日には小田原の「なぎ邸」プロジェクトで「放談会」を実行する。もうちょっと公職的になると、発明協会の意匠審査選定商品の下調べに乗り出す、3月14日ころから「新日本様式」でパリに行く予定もその類か。それでいて、これらはすべて事務所の仕事以外のことだ。

ゴーギャンが、50才代だったと思うが、家族を捨て(実際には妻の合意と援助もあったとも聞いたが)、タヒチに移り住んだ話が近年、ちらちらと脳裏をよぎる。
解放への願望がいつも自己を責める。もともと僕は現状のような生活と仕事を望んではいなかったんだ、という身勝手な思いが自分を責める。
ゴーギャンは最後は性病で苦しんだ。その時代のそういう生活ならそれも当然だが、そんなのは厭だよとは思うものの、自己の精神と肉体の徹底的な解放には驚嘆せざるを得ない。神(自然)の前で死を正視する、生(現実把握)への厳しさにはたじろぐ。
このように感じる時期が、すなわち人生における落とし穴にはまる時期なのだろうか。

仕事とは何のために、誰のためにやるのか、最近ではますます判然としなくなった。岳父のよく言っていたように「すべてが徒労」なのかも知れない。この他にも身内の諍いやら、取れなかった設計料の裁判所調停やら、歯医者に行かなければ、健康診断をしなければとか、年度末の事務所会計問題やら、更には息子の将来やらで頭の休まる時がない。・・・もっとも、こんなこと誰にでもある愚痴かもしれないが。
でも、これだけしがらみに生きていれば、「自分のことしか考えない」という謂れはないのではないか、と思いたくなってしまう。
とは言え、実はそれらの多くは、心配だと思うだけで実際にはほとんど何もしていないことも少なくないのかも。ということは「したくない」、「してもしょうがない」と、どこかで思っているのかも知れない。結局やらないで済んでくれれば、それをいいことにますますやらなくなってくる。そんなことはないとは思っているものの、家内によれば、このことでは息子は、「父親の真似をしている。あなたの責任だ」という。

もし、そう言われるとしたら、それは、一番のプライオリティ(優先順位)を個人的な創作行為に置いているからだと言いたい。しかし、そう言って済んでいるのは幸せ者かお目出度い奴だろう。
こうして偉そうなことを言うが、それは世俗的には何の意味もないことなのだ。「自分のことしか考えていない」とはそういう意味かもしれない。

新年に述べた「箱詰めの創意」は遅々として進まないが、それでも昨日は少し進展し、進めたい方向性に間違いはないような感触を得た。けれどそれが何だというんだ・・・。