晴朗無窮な愛にこだまする空間

晴朗無窮な愛にこだまする空間


想い出して、また「あの歌」を聴いた。
イタリアでの生活の中では、テレビなどを通して当然どこかで無意識にせよ、雑多な音楽を聴いている。
これらの音楽のうち、何回か聴くうちにやはり耳に残ってくるのは、いわゆるカンツォーネと言われる類の歌だ。いわば日本の演歌。その多くは日本人は知らない、
でも在伊中には殆ど気にはしなかった。生活そのものの一部だったからだろうか。
いま、帰国して25年ほども経ってみると、このころの生活心情をぴったり表す音楽―それを聴くと一瞬のうちに往時の心境になり、ワッと涙が出そうになるイタリア演歌―があるものだ、ということが判る。
それは当時、聴き込んでいた歌ではなかった。実際、その歌手も知り、歌う曲も知っているが、その歌は聴いたこともないように思えた。
それは歌手も演奏もイタリア人のものを、カンツォーネ集として出している日本のCDで、10年以上も前に国内で買ったものだ。
最初からピンと来たが、何回か聴くうちに段々と虜になった。
それは、ハスキーで心持ちかん高いイヴァ・ザニキの「Testarda Io(又はLa Mia Solitudine)」という歌。日本語訳では「心遥かに」となっていた。そして、原詩は韻を踏んでおり、そのイタリア語の歌詞がいいのだ。
歌詞の冒頭を、ちょっと棒訳すると、


―まったくわからないの。なぜ、いつもあなたに「いいわ」と言うのかが。
剛直な私は、いつもそれ以上のことを感じているわ。
時には、わたしの嫉妬へのあなたの理解しにくい狂気が、心に傷をつくるわ。
私の孤独はあなたのせいよ―


イヴァの震えるような、ヴィヴラートする声がまたいい。
やっぱり、その国の言葉でなければ言い表せない感情というものはあるのではなか。
「なぜ?」(perche?)とか、「あなた無しで」(senza te) という一言、二言でもイタリア語で聞いた時の響き、イントネーションが、あ、やっぱりイタリアだと感じさせる。
そして、歌声は晴朗無窮な空間にこだまする愛のように、澄み渡っていて孤独であり、寂寥感も滲んでいる。
人生の意味って何だろう。人生は虚無だ。恋し、愛し、嫉妬し、食べることだけが人生を充足させる。あとは静寂だけだ・・・こういうことをイタリアの空間は考えさせる。
そういうことを、イヴァが歌い始めると彷彿とさせるのだ。


ちょうど、テレビの「世界遺産」番組で「ルイス・バラガン」(メキシコの建築家で、非常に寡作。光と色と静寂に昇華させた空間で、晩年になって知られるようになった)をやっていた。そこにあるのは、溢れる光の中で、孤独と静寂が晴朗無窮にこだまする空間だった。


金融操作だけの企業買収や、効率だけ考えた個人の能力評価、市場の原理優先と称して駆け回る昨今のビジネスマン・ワールドでは、情感でさえも戦略用具となっている。こういう世界ではバラガンのような建築は造りづらい。でも、戦略の対象たる組織や人脈が自己の掌中に無くなった時、どうするんだろう。